ああ、過去の出来事が鮮明に思い出される。どうやらこれは、走馬灯というやつらしい。
生物が死の瞬間に見るという、回想だ。
思い起こされるのは君のことばかりだ。私の主人であった君。君と過ごした日々のなんと楽しく、幸せだったことか。犬と呼ばれる種族の私たちにとって、生涯にわたって仕えることが出来る主人を持てることは、至上の喜びでもある。
君は私に多くのものをくれ、私は君と一緒に生涯を全うしようとした。だが、その誓いは護れそうもない。本当に申し訳ない、ご主人よ。
だってそう、今この瞬間にも思い出すことさえ出来なかった幼い日々の記憶が、私の脳裏に浮かび上がっているのだから。
君と初めて出合ったのは、厳冬の頃だったか。仄かに下水の臭いを帯びた河川敷に、私たちは捨てられていた。濡れたダンボールに詰め込まれた私たちは、乳離れの出来ていない子犬だった。
1つ2つと寒さと飢えで兄弟の命が消えていくなか、それでも私は生きていた。生きてはいたが、死ぬのは時間の問題だった。
その日は満月だったことを覚えている。輪郭のぼやけた山吹色の月が、ダンボールの隙間から、私を照らしてくれていた。体がだるい。腹痛のような空腹が私を苛んでいる。
ぼろ雑巾のような体を捨てて、優しい月のもとへ飛んでいきたいと、回らない頭で思った。
そんなときだった。君がダンボールの中を覗き込んできたのは。酷く驚いた様子で君は上擦った声をあげ、少しばかりその声に反応した私を抱き上げたくれた。
――酷いことする奴もいるもんだ……。
冷たくなった兄弟たちを悲しげに見つめながら、君は忌々しげに吐き捨てた。
――大丈夫か、チビ。
震える私の体を羽織ったジャンバーの中に入れ、君は私を温めてくれた。君の体温はまるで母さんのお腹のように温かくて、安心しきって私は眠ってしまった。
熟睡する私を見て、死んでしまったのではないかと狼狽している君の大声で、起こされてしまったけれども。
それから私は病院につれていかれた。消毒液の匂いが鼻につく、あの忌まわしい場所だ。私の健康を思い、君が私をあの場所へ連れて行ってくれたことは分かる。
だが、皮膚に突き刺さる針の痛みと、嫌がる私を無理やり押さえつける白衣の連中たちを好きになる事はできなかった。
私は白衣の連中に、とてつもなく太い注射針を体に容赦なく突きたてられた。
とても痛く、とても怖かった。
助けてと、君に救いを求めたが、君は何もしてくれなかった……。
ああ、だから私は注射があんなにも嫌いだったのか。幼い頃のトラウマとは恐ろしいものだ。
それから私は、君とあの女ひとに育てられることになった。君と君の妻である彼女の一人娘は既に独立していて、小さな一軒家に、君と彼女と私の二人と一匹で住むことになった。
彼女の太陽のように暖かな温もりと、金木犀のような香りが私は大好きだった。穏やかな笑みをいつも浮かべていて、誰にでも優しい女だった。
若い頃は、とても美しい女性だったのだろう。彼女を得るためにライバルたちを姑息な手を使って貶めてきた悪行を、君は意気揚々と語ってくれたね。
実のところ、幼いころの私は主人である君よりも、彼女のほうが好きだった。私が粗相をするたびに、君は私を引っ叩いて雷のような怒鳴り声をあげたものだ。そのたびに、怯える私を慰めてくれたのが彼女だった。彼女の膝は柔らかくて、いつでも安心して眠ることができた。
私は人間であるはずの彼女に、母親の面影を重ねていたのかもしれない。
私にシロという名を授けてくれたのも、彼女だった。人間というものは奇妙なもので、名前という記号を使って自分と他のものを分けなければ気がすまないらしい。自分と他のものの、区別はつくだろうに。
私の名前の由来は、私の白い体毛から来ている。かなり単純な名前だが、彼女が生きていた証だと思えば、誇れるものになるのだから不思議だ。
名前という記号を私はむしろ好ましく思っている。人間が私たち犬に名前をくれるということは、私たちを群れの一員だと認めてくれている証だからだ。いや、群れではなく、家族と言うべきだな。人間は小さな自分たちの群れを家族と表現するが、群れという言葉よりも語感に温かみが感じられて、いい。
庭に植えてある紅梅が香る頃には、君と私は朝の散歩に行くようになっていた。好奇心旺盛な私は、君に委ねるべき散歩のコースを自分で決めたがり、よく君を困らせたものだ。
リードと言ったかな。君が私の首輪に付けたあの紐が私は嫌いでもあり、好きでもあった。行きたい場所に行こうとすれば、君はリードを引っ張ってそれをとめてしまう。そのたびに、私は自由にはしゃぎ回れないことを恨めしく思ったものだ。
逆に、君が私を自由にさせてくれたとき、私は不安になったものだ。
リードを引っ張り私の行動を制限しようとする君の働きかけは、君が側にいることを知らせてくれるメッセージでもあった。君がリードを引っ張らないと、私は飛び回る気分も失せて不安になる。君が、どこかに行ってしまったのではないかと考えてしまう。
リードを視線で追い、その先に君の姿を見
つけたとき、私は嬉しくてよく尻尾を振った。馬鹿なものだ。君が私を捨てることなど、
ありえないのに。幼い私はいつもそんな不安
を抱いていた。
それほどまでに、君と彼女との生活は幸せで
かけがえのないものになっていたのだ。
でも、そう思っていたのは、私だけかもしな
い。
朝の散歩を終えると、紅梅の下で彼女が私たちを出迎えてくれた。腹ペコな私はいつも彼女に駆け寄り、朝ごはんをねだったものだ。犬は本来、外で食事をするのが一般的らしいが、私は家の中で君たちと一緒に食事を食べたものだ。
私はよく、人間が食べるものを欲しがり、君たちを困らせた。
機嫌がいいときには、君は私に食卓のおかずを分けてくれたが、好物の鰹の叩きが出てくると話は別だ。焼酎を飲みながら鰹を食べることが君の何よりの楽しみだった。私はその楽しみを邪魔する、まさしく天邪鬼だった。
私も主人の君と同じく鰹が好物だ。仕方がない。幼い私に酔っ払った勢いで鰹を食べさせ、鰹の虜にしてしまったのは他ならぬ君なのだ。
テーブルに前足を置く私を酔った君が後ろから抱きすくめ、餌皿の置かれた部屋の隅に移動させる。私は負けじと、またテーブルに前足を置き、自分のものだといわんばかりに鰹に涎をかけてやる。
――この、犬野郎!!
君は私を叱り付け、半ベソをかきながら私に、涎のついた鰹の切り身をくれるのだ。そんな鰹を巡る私たち漢の戦いを、彼女は楽しげに笑いながら見守っていた。
よく彼女は私に言ったものだ。私が家に来てから、君がとても笑うようになったと。成長するにつれ、私は彼女が言った言葉の意味をなんとなくだが理解するようになった。
君には公江という一人娘がいたが、彼女が家にやってくることは滅多になかった。代りに、公江の娘であり、君の孫である絵里は良く泊まりがけで遊びに来たものだ。
幼いころの絵里には、よく振り回された。初めて会ったのは、彼女が4、5歳の頃であると思う。私を見るなり彼女は大泣きして、君の後ろに隠れたのだ。
どうもその頃の彼女は、犬が嫌いだったらしい。
――ごめんね。この子、近所の野良犬においかけられてから、ずっとこんな感じで。
そう言って、広江が私に謝ってくれたことを、今でも思い出すことが出来る。何辺、家にやってきても絵美が私に懐いてくれることはなく、私を避ける絵美を見るたびに、胸がちくんと痛んだものだ。
幸せだった。嫌なことも犬並みにあったが、思い返してみれば私は恵まれすぎていたのかもしれない。だから、君の心が壊れてしまったとき私は幸福すぎた自分を呪ったのだ。
幸福の次には不幸がやってくる。その幸福が大きければ大きいほど、大きな不幸が待ち構えているのだ。
心が壊れてしまう病気は認知症というのだと、あの女が教えてくれた。動物の認知機能全てを統括している脳が萎縮し、その役目を果たせなくなっていくというのだ。症状が進むと、鏡に映った自分の姿さえ認識できなくなるという。
君は1日1回だった私との朝の散歩を、2回も、3回もするようになった。歩きなれた散歩コースで道に迷うようになった。終えたはずの朝食はまだかと、彼女に催促するようになった。
彼女の幸せそうな笑顔が、日が経つにつれて、悲しみを堪えたものになっていった。仕方のないことなのと、彼女はいつも私に言ってきかせ、自分を慰めていた。
心がゆっくりと壊れていく君は、その苛立ちを彼女にぶつけていった。楽しかった笑い声は、もう小さな一軒家に木霊することはない。君は彼女を毎日のように怒鳴りつけた。
――ごめんなさい……
何も悪くないのに、彼女は涙を流しながら君に謝る。何度も、何度も。君の心が壊れていくのは彼女のせいではない。どうしようもない。本当に誰にもどうしようもないことなんだ。
なのに、どうして君は彼女を泣かせたんだ。あんたに大切だと言っていた彼女を罵ったんだ。それだけは、君が彼女を泣かせたことだけは、今でも許せない。
ある日、彼女を庇おうと牙を向けた私を君は容赦なく蹴りつけた。
――なんだ、この薄汚い犬は!!
――こんなもん連れ込みやがって!! お前は俺に何の不満があるんだ!
壊れた君の中に私という存在はもういなかった。もう、君は以前の優しかったご主人ではないのだと、私は思い知らされた。
悲しい、悲しい。君に救ってもらった命だった。君と共にありたいと私は思い生きてきた。君と彼女と笑いながら過ごせるのなら、何もいらなかった。それすらも、もう叶わない。君にとって私は要らない存在になった。
君は入院することになった。小さな家には、私と彼女の一人と一匹だけが住むことになった。君の怒鳴り声が彼女を脅かすことはもうない。けれど、君の笑い声がこの小さな家に戻ってくることも二度となかった。
静かな時間だけが、私と彼女の間には流れていた。君に責められることがなくなっても、彼女の笑みから悲しみが消えることはなかった。縁側で深緑に染まった紅梅を見つめながら、彼女は昔に戻りたいと私に囁きかける。そうだねと、私は彼女を見つめて答える。
君がいないだけで、ぽっかりと私たちの心には、孤独という名の穴が穿たれてしまっていた。
朝の散歩は彼女と一緒に行く。紅梅の下で帰りを待ってくれる人はいない。鰹の叩きが食卓を飾ることもなくなった。食事のときに、彼女が笑うことも、もうない。
紅梅が白い花をつける春先に、彼女は縁側で眠るように逝ってしまった。安らかに、幸せそうな笑みを浮かべながら。死んだ彼女を見つけたのは、私だった。
君と久しぶりに逢ったのは、彼女の葬儀の日だった。歩くことさえ忘れてしまった君は、公江の牽く車椅子に乗ってこの家に帰って来た。
まるで枯れ木のようにやせ細った君の目に輝きはなく、生きているのが不思議なぐらいだった。
恐る恐る君に近づく私を見て、君はまるで満月の夜に幼い私を見つけたときのように驚いた表情を浮かべた。君の濁った眼に僅かにだが光が灯る。泣きそうな顔をしながら、君は優しく私を撫でてくれた。
ああ、君は私を忘れてなんかいなかったんだ。心が壊れても、心のずっと奥で私のことを覚えていてくれた。
そっと私は君に擦り寄る。骨ばった震える手で、君は私の頭を優しく抱き締めてくれた。君の体は痩せ細っていたけれど、子犬のころ私の体を温めてくれた体温は変わらないままだった。
君は悲しげに私を見つめる。彼女と私と過ごしたあの日々に戻りたいと、君の眼は訴えていた。言葉にしなくても分かる。私も同じ気持ちだったのだから。
何も言わずとも、私と君の心は繋がっていた。
君と逢ったのはそれっきり。葬儀が終って、君を乗せた車が家から去っていく。私は君を追いかけようとしたが、リードを持った絵里がそれを許してくれなかった。去っていく君を思い吼える私を、絵里は優しく抱き締めてくれた。
――そうだよね……別れちゃうなんて嫌だよね……。
泣きそうな声で絵里は私に語りかける。慰めてくれる彼女がどうして、悲しげなのか私には分からなかった。
私は公江の家族に引き取られることになった。面倒を見てくれたのは絵里だ。犬嫌いだった彼女が、私の面倒を見てくれるとはなんとも奇妙な巡りあわせだろうか。
けれど、昔会った幼い絵里とは別人なのではないかと疑ってしまうほどに、彼女は私を可愛がってくれた。近所にあるアニマルセンターに行くようになって、少しずつではあるが犬嫌いが直っていったらしい。
――あの時は、本当にごめんね。
苦笑しながら、彼女は私を見るたびに怖いと怯えていたことを謝ったものだ。別にそれは謝るべきことではない。絵里が野犬に襲われたことは私が注射を嫌いなのと同じくらい、幼い彼女にとって恐ろしいことだったはずだ。
彼女が私を怖がることは必然であり、それが悲しくもあったが仕方のないことだと私は割り切っていた。だけど、嫌われていた彼女と心を通い合わせることが出来たことは、私にとって生涯最後の幸福だった。
絵里には心から感謝している。心残りがあるといえば、彼女を主人と敬えなかったことだろう。だって、私の主人は君だけなのだから。
ああ、意識が朦朧と薄れていく。走馬灯もそろそろ終りに近づいてきたらしい。君は私がいなくなって寂しくないだろうか。側にいられなくて申し訳ない、ご主人。一緒にいられなくて、ごめんなさい……ごめんなさい……。
あなたと逢えて、本当に私は幸せだった……。
――シロちゃん。
遠くから私を呼ぶ声が聞こえる。眼を開けると、あの女が笑顔を浮かべて私を撫でていた。彼女の柔らかな膝の上に私はいる。久々に感じる彼女の温もりに、私は気を良くして甘えた声を発した。
――シロちゃんは相変わらず、甘えん坊ね。
苦笑して、彼女は私の頭を撫でてくれる。彼女が発する金木犀の香りに、ほどよく意識がまどろんでいく。
紅梅の香りが、私の鼻をくすぐる。ああ、懐かしい我が家の香りだ。私は帰って来たんだ。君と彼女と過ごした、あの小さな家に。
――あの人ももうすぐ帰ってくるから、それまで私とお留守番してましょうね。
縁側に座る彼女は、私を優しく撫でながら言う。そうか、君はもうすぐ帰ってくるんだ。また、二人と一匹で暮らすことが出来るんだ。
ご主人、帰ってきたら、また一緒に鰹を取り合おう。そうだ、今度は君と彼女と私の二人の一匹で散歩をしよう。そっちのほうが、一人と一匹の散歩よりずっと楽しい。ああ、君が帰ってくると考えるだけで、わくわくしてくる。早く、君に逢いたい。あって、君と何をしようか。ご主人、早く帰ってきて。
私はずっと、ここで君を待っているよ。
君へ