​  幻想蒐集館 栞

                    光る夢

 

 冬の夜更けに物語を綴りながら、式部は物思いに耽る。そこに、彼女を訊ねてくる者があった。

​ 冷たい風が式部の頬を撫でた。
 筆を硯箱の上に置き、風に誘われるように式部は外を眺める。
 簾みすを挟んで見える壺庭は、一面を雪で覆われている。上方を見ると夜空に満月が輝き、銀の庭を照らしていた。
 月はまるで、地上にいる式部を見下ろしているようだ。
 古来より、月を眺めることは不吉となこととだとわれている。このまま月を眺めていたら、隣で休んでいる小少将の君が起きてきて、不吉なことをなさっていると式部を叱りにくるだろう。
 怒っている彼女ほど怖いものはない。式部は急いで文机に広げた和紙へと視線を戻した。
 灯台の炎が揺らめいて、和紙に不気味な影をつくる。その影を見て、式部は眼を見開いた。
 先ほどまで、小少将の君と竹取物語を読んでいたせいだろうか。嫌な想像をしてしまう。
 不吉なはずの月を、悲しげに眺めていたかぐや姫は何を思っていたのだろう。
 故郷である月を眺め、彼女はこの地を離れることを憂いていたに違いない。
 そんなかぐや姫を見守っていた女房にょうぼうたちを思うと、憐れな心持ちになって物語の続きを書く気になれない。
 もし、お仕えする彰子さまが悲しげに月を見ていたら――
 また、炎が揺らめく。式部は物思いを払おうと頭を振るった。
 彰子はこの土御門殿つちみかどでんで、二人目の若宮を出産したばかりだ。
 幸せの絶頂にいる彼女が、かぐや姫のように月を眺める訳がない。
 気を取り直して、式部は文机の和紙を見つめる。
 和紙には流麗な式部の文字が並んでいる。その文字を書き足さなくてはいけない。
 式部は空白を埋めようと思案した。
 だが、筆が進まない。物語の続きがどうしても思いつかない。
 ため息をつき、式部は筆を硯に置いた。
 こうも一つの物語を書き上げることは難儀なことだったろうか。以前は心に思い描いたことをそのまま文字にできたというのに。
 物語のいでき始めの親である竹取物語に倣い、式部は源氏物語を生み出した。
 源氏物語は、天子でありがながら臣下にくだった光源氏の生涯を描いた話だ。物語の中で栄光を極めた彼のその後を、どうしても書くことができない。
 式部は文机に頬杖をつき、ここ数年ですっかり変わってしまった自分の身の上に思いを馳せていた。
 源氏物語は当初、夫、宣孝のぶたかを失った悲しみを紛らさせるために書いていたものだ。
 それがいつのまにか貴族たちの心を掴み、天皇の中宮たる彰子の愛読書となった。
 あなたを是非、女房としたい―――
 初めて会ったとき、彰子は真摯な声で式部に告げた。彰子は式部の屋敷を密かに訪れ、女房となることを請うてきたのだ。
 表向きには彰子の父である藤原道長が、式部を彰子の女房に抜擢したとされている。実際には彰子の強い希望により、道長は式部を彼女の女房に加えたのだ。
 人前に姿を現し、俗に染まると厭われがちな宮勤めである。式部自身、簾の外に出て公達きんだちの相手をすることには抵抗を覚えた。
 だが、源氏物語を夢中になって読んでくれる彰子の姿が、そんな思いを打ち消してくれるのだ。
 亡き皇后たる定子が帝の寵愛を受けていたために、彰子は帝に振り向きもされなかった。そんな辛苦を乗り越え、帝と仲睦まじくしている彰子の姿は、式部の心さえも満たしてくれる。
 夫を喪い、この世に空虚しか見出すことができなかった式部にとって、それは大きな変化といえた。
 帝もまた、彰子の読み聴かせる源氏物語の虜となっているらしい。
 自身を慰めるものとして書いていたものは、今や宮廷にすら影響を及ぼすようになっている。
 式部の描く物語は大きな力を持って彰子を、その父たる道長を栄光の道へと導こうとしているのだ。
 彰子が生んだ御子が天皇となれば、道長は外祖父摂政として世を思いのままにできる。彼は莫大な権力を手中に収めることとなるのだ。
 道長のように、源氏物語の光源氏も栄華を手にする。
 彼は母である桐壺の更衣の面影を持った女性、藤壺の女御と関係を持つ。
 その彼女との間に源氏の君は御子を儲けるのだ。
 その御子が帝となり、後ろ盾となった彼は莫大な権力を手にすることとなる。
 だが、その先はどうだろう。栄光の先に待つものは、なんであろうか。
 式部は物語の続きを書くことができない。続きが、思いつかないのだ。
 考えてしまう。
 栄華の先に待つのは、ただ漠然と広がる――
「栄光の先には、無常がありましょう。母上」
 声がした。年老いた、男の声だった。
 はっと、式部は声のした方へと顔を向ける。
 灯台の炎が揺らめいて、暗がりにいる翁を浮かび上がらせていた。小少将の君が座っていた御座に腰を下ろし、目尻を綻ばせてこちらを見つめている。
 白い直衣を纏った老人だった。
 美しく纏められた霧髪と異様に白い肌が、暗がりの中で蒼白く見える。
 品の良い香が彼の衣から漂ってきて、身分の高い貴人だと想像できる。
 想像できるが、こうも唐突に現れる貴人はいない。
 物の怪か。はたまた化生の類か。
 翁の正体を知りたいと思う式部であったが、余計な詮索はしないことにした。彼の正体よりも、彼の言わんとしていることに興味がある。
「はて、私には一人娘がおりますが、あなた様のように立派な殿方を子に持った覚えはありません」
 式部は、くすりと笑って翁に返す。翁は眼を細め、式部に言った。
「それでも私はあなたの息子なのです。気を害されると思いますが、母と呼ぶことをお許し下さい」
「ええ、いいですとも。私も、娘よりも息子が欲しいと思ったことがございます」
「それは、賢子さまに失礼では?」
「あら、そうでしょうか?」
 翁は、娘の名前まで知っている。
 その事実に驚きつつも、式部は声をあげて笑ってみせた。つられて翁も笑い声をあげる。嫌らしくない。なんとも快活で、気持ちのよくなる声だ。
「若い頃は、さぞかし女性を泣かせたのではないですか?」
「いやいや」
「姫君たちはあなたを待ちわびて、袖を濡らして夜を明かしたことでしょう」
「何とも罪深いことを若い頃はいたしました。いや、今なお私は浅はかだ」
 翁はすっと眼を細め、御簾越しに広がる雪の庭を見つめた。
 月光を帯びる彼の顔には、憂いが見てとれる。
雪に包まれた壺庭は、音一つない。その静寂を感じながら、翁は何を思っているのだろうか。
「何か思うことが?」
「妻を亡くしました」
 月を仰ぎ、翁は答える。
 彼の言葉に、式部はふっと目を細めた。月を仰ぐ翁を見て、亡き宣孝を思いだしたのだ。翁の面差しは、少しばかり亡くなった夫に似ている。
 宣孝が生きていれば、翁のような老け方をしていたかもしれない。
「多くの女性を愛しましたが、本当に愛おしかったのは妻一人だと、亡くして気がついたのです。自分が何とも愚かで、何とも、虚しい。なぜ、生きていたときに気づいてやれなかったのか、口惜しくて……。月でも眺めて、自分を罰することぐらいしか、思いつきません」
「奥方は、あなたの不幸を望まれるのですが?」
「いいえ、だからこそ罰になる……」
「何とも身勝手な殿方ですこと」
 唇を綻ばせ、式部は微笑んでみせた。彼から視線を放して、月を仰ぐ。
 母上と、翁の慌てる声が聞こえた。
「私も同じです。亡くした、夫のことばかり思っている。生きていた頃は、そんなことなど気づきもしなかったのに」
 父と呼べるほどに、宣孝は年をとった夫だった。
 越前の守となった父親とともに住み慣れた都を離れたときも、絶えず文を送ってくれた男性。宣孝の妻になることに抵抗はあったが、彼の人柄がそんな気持ちを打ち消してくれた。

 ――春は解くるもの

 都の桜が花をつけると、式部は彼が送ってくれた文の一節を思い出す。その文章ように、頑なだった式部の心はいつのまにか溶かされていた。
 本妻ではない。妾しょうの一人であっても、彼は式部に優しくしてくれた。生まれた娘を笑いながらあやしてくれる、良き父でもあった。
 鴨川沿いの桜を眺めながら、夕暮れの都を親子三人で歩いたものだ。ずっと続くと思っていた夫との生活は、彼の突然の死で終りを迎える。
 正妻ではなかった式部は、夫の死に目にも会えなかった。
 使いの者が彼の死を伝えに来て、それきり。
 式部の中には、夫を失った空虚さだけが残った。
 それでも世は変わらずに動いていく。宣孝の家族ですら、彼を初めからいなかった者のように日々を生きているのだ。
 式部にとってかけがえのない人は、世にとってその程度の存在でしかなかった。
 否――
 どんなに身分の高い者が亡くなろうと、世は平穏を取り戻し動いていく。川の流れのごとく刻々と世は移り変わり、誰にもその流れを止めることはできないのだ。
 庭を流れる、遣水の音が式部の耳に聞こえた。我に返り、式部は水の流れる音に耳を澄ませる。
「はて、雪がこれだけ積もっているのに、水の流れがとまらないとは」
 翁にも水音が聞こえているのだろう。
 ほうっと息を吐いて、彼は感心したよう式部を見てくる。童のように眼を輝かせ、彼は笑ってみせた。
「殿が毎日、念入りに手入れをなされておりますから。ここの遣水は透渡殿の下を通って、庭にある池に流れております」
「まるで栄華を極めんとする、道長様そのものですな」
「えぇ、殿そのものです」
「ただ、その先には――」
「わかっておりますとも」
 式部の言葉を受けて、翁は視線を月へと戻す。月に照らされた彼の横顔には、何とも寂しげな笑みが浮かんでいた。
 室内に流れるのは、遣水の音のみ。水は庭にある池を目指し、絶えず流れ続ける。流れは刻々と代わり、誰もそれをとめることはできない。
 道長もまた、孫である天子を帝とし絶大な権力を得るだろう。その勢いをとめるものは誰もいない。
 ただ、それは永劫のものではない。
 時が過ぎ、道長に代わる誰かが権力を得るだろう。それは水の流れのごとく、絶えず変わっていく。
 はてさて、道長はそのことに思い至るのだろうか。
 道長の行く末に想いを馳せながら、式部は哂っていた。
 翁との会話をきっかけに、物語の続きを閃いたのだ。想像は水の流れのごとく、式部の心を駆け巡る。
 早くこの想像を形にしてしまいたい。そんな思いを抱き、式部は瞳を見開いた。
「なんと、浅ましい……」
「はて、どうされました?」
 式部の言葉に、翁は眉をしかめる。
「いえ、人の心もまた移ろうものなのだと、そう思い知らされただけです」
 さきほどまで亡き夫を思っていた式部の心は、今や物語を書きたいという妄執に囚われている。
 なんと、人の心は移ろいやすいものか。己の欲の深さを実感し、式部は口元に自嘲を滲ませていた。
 そんな式部を見て、翁が笑う。
「人があるかぎり続くものもあるのですよ、母上」
「はて、そんなものがあるのでしょうか?」
 翁の言葉に、式部は首を傾げる。
 式部は眼を眇めてみせるが、翁は疑問に答えてくれそうにない。
 世は絶えず変わっていく。その無常の中にあって、変わらぬものなどあるというのだろうか。
「あなたが、一番おわかりのはずだ」
「私めが?」
 そんなものに心当たりはない。
 顔をしかめてみるが、翁は笑ってこちらを見つめるだけだ。
「今にわかりますよ」
 優しく、翁が言葉を紡ぐ。
 彼の言葉を受けて、灯台の炎が鈍い音を放った。
 室内の影が大きく揺れ、ふっと、灯火が消えた。
「あら」
 式部は声をあげて、灯台へと駆け寄る。
 炎を灯し、翁の座っていた御座へと視線をやる。翁は、そこにいなかった。
「まったく」
 式部はため息をつく。眼を閉じ、耳をすませる。
 音はなく静寂だけが耳朶を支配する。
 翁の笑い声が聞こえて気がして、式部は眼を見開いていた。
 翁が座っていた御座を見つめる。
 今更ながら、彼がいなくなった寂しさを感じてしまう。
 挨拶もしないで、彼は去っていった。
 自分の息子だと彼は名乗っていたが、何者だったのか。
 ただ、翁との会話は式部に大きなものを与えた。
 式部の中で、物語の続きが生まれようとしている。描くのは、栄光に包まれた光源氏の、その後の人生。
「格子も降ろさずに何をしておるのだ?」
 外から声がした。男の声だった。
 見覚えのある声に誘われ、式部は外へと顔を向ける。
 簾の向こうに、一人の男性が立っている。
 嗅ぎなれた香のかおりが、男性の衣から漂ってくる。雪のように白い直衣を着た道長が、簾越しに式部を見つめていた。
「殿、こんな夜更けにいかがなさいました?」
「月が美しくて、ついここまで来てしまったのだよ」
「不吉なことをなさいますね」
「そういうお前はどうなのだ?」
「私は、夢を見ておりましたので」
「夢とは、寝ぼけてはおるまいな」
「いえ、輝くように美しい夢でございましたよ」
 式部の言葉に道長は笑った。
 月光が彼の笑顔を照らす。その笑みを見て、式部は息を呑んだ。
 鼻筋の通った顔に、道長は優しげな笑みを浮かべている。
 笑う道長は、先ほどまで話をしていた翁とどこか似ている。そして、亡くなった夫の面影を、式部はときおり道長に見てしまうのだ。
 道長は、眼を透渡殿すきわたりどのへとやった。
「歌を詠んでくれないか?」
 道長は、式部に告げる。彼は懐かしそうに透渡殿を見つめ続ける。
 以前、透渡殿の南側に咲いていた女郎花を、道長が式部に贈ったことがある。そのときのように、歌を詠んでくれとせがんでいるのだろう。
 道長が式部に振り返った。
 彼の容貌に笑みは浮かんでいない。月光を宿した静かな眼差しを、式部に向けてくるだけだ。
 式部はその眼差しから、眼を逸らすことができない。
 だが、式部は苦笑し口元を袖で隠してみせた。道長は唖然と式部を見つめ、固まってしまう。
「大変申し訳ございませんが、先約がございまして」
「はて、先約とな?」
「はい、彰子さまが源氏物語の続きをご所望されております」
「それは困ったな。私も楽しみだ」
「さて、物語の続きは思いついたのか」
「えぇ、夢の中で」
「夢の中か」
 式部の言葉を反芻し、彼は眼を伏せた。式部に微笑みかけ、彼は月を仰いでみせる。
 亡き夫も、彼のようによく月を仰いでいた。嗜めると、あなたをおいて逝ったりはしないよと宣孝は笑ってみせた。
 だが、道長は夫ではない。面差しが似ているだけの別人なのだ。
 寂しさを覚えて、式部は月を仰いでいた。
 簾越しに見える月は、細長い雲に覆われようとしている。
 雲に隠れる月。何とも、物寂しげで憐れだ。
 炎が揺らめいて、式部は文机に置かれた和紙を見た。不意に、翁の笑う姿が脳裏を掠める。
「あなた、でしたか」
 翁の正体に、式部は思い当たる。
 愛しげに、式部は和紙の文字を指でなぞった。我が子である物語を、あやすように。物語の主役である光源氏を思いやるように。
「どうした?」
 不思議そうに、道長が声をかけてくる。
 顔をあげると道長は、眼を綻ばせ式部を見つめていた。
 彼の笑顔を見て、式部は眼を剥く。道長の笑顔が、翁のそれと瓜二つに見えたのだ。
 夫の面差しを持つ道長と、面差しの似た翁。そして、翁は式部の息子であると名乗っていた。
「まったく」
 唇を綻ばせ、式部は笑うことしかできなかった。
 自分の浅ましさに、ほとほと嫌気がさす。
 光源氏が母である藤壺の女御の面影を求め、彼女とそっくりな若紫を見出す訳だ。式部自身がそうであるのだから。
 知らず知らずのうちに式部は夫を求め、光源氏にその面影を重ねていた。そして目の前にいる道長にも、夫の面影を求めている。
「どうした?」
「いえ、夢のことを考えておりました。輝かんばかりの光る夢のことを」
「私も、夢の中にいる心地だよ」
 式部の言葉に、道長は苦笑してみせた。
 道長は、今まさに世の頂へと登らんとしている。だが、その先を彼は知っているだろうか。
 ふっと、不安な気持ちになって式部は月を眺めていた。
 雲に隠れようとしている、輝かんばかりの月を。
 なんとも、憐れで寂しげな月を。
 無常を式部は知っている。道長すら知らない、栄光のその先を。
 ただ、それを知った先に待つものは――
 月が雲に隠れる。月光が失われ、壺庭は夜闇に覆われた。
「はて、何も見えなくなった……」
 道長が小さく言う。
 彼は飽くことなく雲に隠れた月を眺めている。
 簾のむこうにいる彼は、今にも闇に覆われてしまいそうだ。何とも悲しい気持ちになって、式部は彼から視線を放していた。
 文机に置かれた和紙に視線を戻す。
 灯りを受けて、式部の影は頼りなさげに和紙の上を漂っている。
 式部は硯に乗っ筆に手を伸ばす。だが式部は眼を歪め、その手をとめてしまった。
 灯火が揺れる。
 和紙を照らす輝きは、まるで式部を責めるように赤々と燃えている。
「大丈夫、書いてみせますから……」
 式部は優しく言葉を紡ぐ。
 灯に照らされた和紙に触れる。なだめるように、式部は和紙に書いた文字をゆっくりとなぞった。
 さぁ、書こう。物語の続きを。
 栄光を知った光源氏の、その後の人生を。
 無常を知った彼が在りし日々を思い、寂しさを感じようとも。
 愛する人を亡くし、取り残される悲しみを胸の内に刻みつけようとも。
 書かかなくてはならないのだ。
 それが夫の死を思い起こし、道長の行き先に不安を覚える行為だとしても。
 この物語を生み出した親として、式部は物語を終わりまで紡がなければならない。
 ただ、彼女は知らない。
 このとき書いた物語が、千年の長きにわたって読み継がれることを。
 移り変わる世の中にあって変わらぬものを、彼女自身が生み出そうとしていることを―― 
 

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