​  幻想蒐集館 栞

                    

                  少年快楽園

 

 彼は僕をガニュメデスだと褒めたたえてくれた。不死の飲み物ネクタールを神々に給仕する美しき少年に、僕は瓜二つだというのだ。
 
 

 硝子の中に彼がいた。
 たゆたうホルマリン液の中で彼は病的に白い素肌を晒している。
 硝子の中で、彼は踊っていた。
 ホルマリン液の中で彼は幸せそうに笑っていたのだ。



 蝉が煩い夏だった。
 今でも、僕の耳朶から離れてくれない音。彼と運命を共にした、呪われた日の思い出。
 僕は少年だった。
 少女めいた儚さを君は兼ね備えているなんて、同性愛者の幼馴染は言ってくれた。
 長い睫毛に愁いを帯びた眼。幼いのに均整の取れた細い体。
 君はまるで神々に攫われたトロイの王子ガニュメデスのようだと幼馴染の彼は、僕を褒め称えてきたんだ。
 それは、熱い夏の図書館での出来事だった。
 イーリアスを読む僕に、彼は突然そんなことを言ってきた。
 僕はアポロンに寵愛されていたヘクトルじゃないのかと笑ってみせると、ヘクトルはアキレウスに殺されてしまうから僕ではないと彼は笑った。
 ガニュメデスは青春の神へーべーの代わりに神々のネクタール――不死の飲み物――を給仕するためゼウスによってオリュンポスに攫われてしまった美少年だ。息子と引き換えに、トロイの王は魔法の神速の馬を与えられた。
 世界中で一番美しい少年を、神々は毎日愛でていたのだ。
「僕は君を毎日眺められて幸せだよ。君は僕のガニュメデスだ」
 彼が笑う。
「僕は同性愛者じゃない」
 僕はいつものように冷たく返す。
 それでも、と彼が繰り返す。スフィンクスみたく彼は僕に問いかけてくるんだ。
「君は、僕をどう思ってる?」
 彼の煩わしい言葉を、蝉の煩い合唱がかき消してくれる。僕は何も聞こえない振りをして、本に視線を走らせる。
 でも、トロイとギリシアの戦いを描いた抒情詩は僕に何も与えてくれなかった。それはもう、ただの意味をもたない文字の羅列だったのだ。
 彼が側にいると、意味のある本は無意味な文字の暗号と化してしまう。何が書いてあるか頭に入らなくて、僕の読解力は格段に落ちる。
 彼は良い友達だった。古典文学を愛する同志でもあった。
 蔵書数も少なければ利用者もいない図書館で暇をつぶすのは僕と彼ぐらいだ。
 でも、僕は彼を愛してはいなかった。ましてや、恋愛の対象なんてとんでもない。
 彼は美しい青年だったのだ。
 小柄な僕と違い長身でスマートな体躯の彼は、猫のように背筋を伸ばすのが癖になっていた。切れ長の眼はどんな人間でも虜にしてしまうし、彼は女子によくモテた。
 逆に僕はというと、本が好きというだけで根暗のラベル貼られる始末だ。彼が本を読んでいれば、知的で素敵だと褒めそやすくせに。
 僕は僕を好きだという彼が嫌いだった。彼に群がる女子も嫌いだった。彼を拒みながら、女子に嫉妬する自分自身が嫌いだった。
 それらすべてを覆いつくす、蝉の鳴き声も。
「ねぇ、こっちを見てよ」
 彼の声が聞こえる。それでも僕は本から目を離さない。
「ねぇ、俺を見てよっ」
 彼の声に少しばかり棘がある。僕はびくりと肩を震わせていた。
 彼と眼を合わせてはいけない。そんな気がして、僕は本からよけいに目が離せなくなる。
「ねぇ、俺を見てっ!」
 彼の声は悲鳴そのものだった。眼を見開いて、僕はようやく彼と眼を合わせる。
 瞬間、彼の顔が目の前にあった。唇に何かがあたっていた。
 何が起きたかを考えることもなく、僕は彼を突き放していた。
 図書館を跳び出して廊下を走る。彼の声が後方から聞こえてくるが振り返らない。
 わぁんわぁんと蝉の鳴き声が煩い。
 だから、僕は蝉の鳴き声が嫌いなのだ。
 でも、彼から逃げ出した僕自身を僕は許すことが出来なかった。
 それからしばらくして、彼がいなくなった。





 彼がいなくなってからの僕は、それはもう酷いものだった。
 授業をさぼっては、彼と過ごしていた図書館に入り浸り、蝉の鳴き声に耳を貸した。
 とにかく僕は本を読んだ。彼の語ったギリシア神話の、ガニュメデスの本を読み漁った。美しい少年を愛したアポロンの神話を乱読した。
 僕は遠い昔に忘れ去られた神々の神話の中に、彼の面影も見出そうとした。
 彼はきっと鷲に攫われてしまったのだ。ゼウスの使いであり、ガニュメデスを攫った大鷲に。
 でも、攫った相手はガニュメデスの父王に馬を授けたように、彼を奪った対価を支払わなくてはいけないはずだ。
 じゃあ彼を必要としていた僕には、どんな対価が支払われるのだろうか?



 その日は突然やってきた。
 夏も終わりに差し掛かり、田んぼで赤蜻蛉が番を求めて舞っていた。いつもなら僕の隣には彼がいて、彼が僕らのようだと赤蜻蛉を指さして笑うのだ。
 僕は、そんな彼を見ることもなく田んぼ道をひたすら歩いていた。彼は待ってくれよと笑いながら僕についていくのだ。
 2人で歩いた道を僕は1人で歩いている。彼の笑い声は聞こえない。ただ、夏の中頃より少なくなった蝉の鳴き声だけが煩い。
 そときだ。あぁ、いたいたと前方から声があがったのは。
 前を向くと、背広を羽織った男性がこちらに駆けてくるではないか。
「君だよね? 君が、有紀くんだよね?」
 整った顔を綻ばせ、彼は僕の名前を呼ぶ。知らない男に突然話しかけられ、僕は身を固くしていた。
「大丈夫。私は君を招待するように言われただけだよ」
 すっと男は笑みを浮かべて、僕に手を差し伸べてくる。その手には手紙が握られていた、
「君へ。オリュンポスへの招待状だそうだ」
「あなたはゼウスの鷲なの?」
 男の台詞に、僕はとっさに言葉を返していた。男は困ったように笑みを浮かべ、答えてみせる。
「じゃあ君は、ガニュメデスなのかい?」



 町はずれの郊外には田園があって、その田園の端には大きな雑木林があった。その雑木林の中に朽ち果てた洋館が建っているのだ。
 戦前、この辺りを治めていた地主が住んでいたらしい。
 そのあとGHQに接収され、売春が廃止されるまで米兵御用達の夜の店として機能していたらしい。
 今は誰からも顧みられることなく荒れ放題だ。
 その屋敷には、妙な噂があった。
 この場所にガニュメデスがいるいうのだ。それはどうもここが小児性愛者専門の娼館だったことを示しているらしい。
 ここには美しい少年が集められ、夜ごと宴がもようされていたらしい。
 古代ギリシアの衣服に身を包んだ客人が、裸の少年たちを相手に秘め事をおこなう。まるで弟子である少年たちを愛する、ギリシアの男たちのように。
 ふと、屋敷の噂を思い出して行方不明になった彼のことを思う。
 煩い蝉の鳴き声。彼の笑い声。唇に残る、彼の感触。
 あの日の図書館の光景が、ありありと僕の目の前に映し出される。僕に突き放された彼は酷く悲しげな顔をしていた。
 ごめんねと、僕に謝った。
 その謝罪の言葉が許せなくて、僕は図書館を後にしていた。
 彼は何を思い僕にガニュメデスの話をしたのだろうか。後悔するようなら、どうして僕にあんな仕打ちをしたのだろうか。
 唇をなぞり、僕は顔をあげる。
 目の前には、錆びついた鉄製の門がある。無数の蔦で覆われたその門は、洋館への入り口だ。
 扉には鎖が巻き付けられ南京錠がかけられていた。その南京錠に真新しい鍵がついてるじゃないか。まるで、開けてくださいと言わんばかりに。
 ごくりと僕は唾を飲み込んでいた。
 そっと扉に近づき、南京錠に手をかける。夏の太陽に晒されていた鉄製のそれは、かすかなぬくもりを帯びていた。
 つるんとした表面を撫でていると、自分の掌に鉄の匂いが広がっていく。
 まるで血を触っているみたいだ。
 咄嗟に僕は南京錠から手を離していた。鎖にぶら下っていた南京錠は大きく揺れて地面に落ちる。
 鈍い音がした。その音を受けていっせいに雑木林の蝉が鳴き出す。
 じぃじぃ。
 じぃじぃ。
 まるで僕を責め立てるように、蝉は煩く鳴いてくるのだ。
 じぃじぃ。
 じぃじぃ。
 黄昏どきの空が暗くなっていく。周囲が闇に閉ざされようとしている。
 その闇に急かされるように、僕は門へと手をかけていた。

 

 濃紫に染まった空さがかすかに明るい。その明かりに照らされて、屋敷は惨めな様相を僕に見せつけてきた。
 どっしりとした彫刻の施された扉は扉枠から外れ、大理石の階段には枯れ葉が積もっていた。
 扉枠から覗くエントラスホールには赤い絨毯が敷きつめられている。絨毯に積もった埃が、黄昏の残滓を受けて微かに光り輝いていた。
 僕は大理石の階段に足をかける。階段をあがっていくと、黴臭い絨毯の香りが鼻に染みた。屋敷に入ると視界が暗くなる。顔をあげると、上方に取り付けられた割れた窓から、薄黄色の光が差し込んでいた。
 その光の帯の中に、僕は身を投じる。
「まるで、ガニュメデスのようだ……」
 男の声がした。驚いて後方へと振り返ると、僕に手紙を渡したあの男性がいるじゃないか。彼はうっとりと眼を細め、僕を見つめていた。
 男の視線に、僕は背筋が震えあがるのを感じていた。まるで獲物を狙う鷹のごとく、男の眼は怪しい光を放っている。
「彼からの手紙は読んだかい?」
 男の問いかけに、僕は静かに頷いていた。




 有紀、有紀、僕の有紀。
 俺の最愛の友であり、俺の最愛の人である君よ。
 俺は、君に抱いてはいけない思いを抱いてしまった。
 本当にすまないと思っている。
 でも、そんな俺を許してほしい。そんな俺を忘れないでほしい。
 出来ることなら、こんなにも醜い劣情を抱えた俺を愛してほしい。
 でも、それは叶わない願いだ。だから俺は鷹に攫われよう。
 オリュンポスのガニュメデスになろう。
 あそこには、俺と同じ気持ちを抱える少年たちがいる。
 あの人は、俺たちを永遠にしてくれる。
 そして、有紀よ。僕のガニュメデスよ。
 願わくば君と、永遠でありたかった。
 願うことなら、永遠になった僕に会いに来てほしい。
 俺を、独りにしないで欲しい。

 



 彼がくれた手紙の内容を、僕は何度も頭で反芻していた。僕は男の後に付き添い屋敷の廊下を歩いている。
 ――彼に会わせてあげよう。
 そう言って嗤っていた男の眼を思い出す。男は僕の全身をなめまわすように見つめていたのだ。
 ぎらぎらと光った男の眼を忘れることが出来ない。まるで、獲物を狙う鷹のように鋭い光を放ってた眼を。
 夜闇に沈んだばかりの廊下を、僕は男の足音だけを頼りに進んでいく。廊下に敷かれた絨毯は黴臭い匂いを屋敷中に振り撒いていた。その匂いが、廊下を歩けば歩くほど強くなっていくのだ。そして、強力な薬品の香りも。
「ここだよ、僕のガニュメデス……」
 男の声が耳朶に響く。彼が僕の肩を抱き、背後から僕に囁きかけていたのだ。
 驚いて、僕は彼へと振り向く。
「ついたよ、君の愛しい人がこの下で待っている……。さしずめここは、タルタロスの入口かな」
 彼が陶然とした眼差しを前方に向けている。慌てて前方へと顔を向けると、壁に大きな穴が穿たれていた。
 その穴の前に、彼が持っていたランタンが置かれている。ランタンはぼうっと光り、穴の中を照らしている。
 タルタロス。冥府の神ウラヌスの治める地下の世界。そこにこの穴は続いていると彼は言うのだ。
 穴の向こう側には、どこまでも続く階段が暗い明りに浮かび上がっていた。




 穴の中の階段を抜けると、眩しい光が僕を出迎えてくれた。僕は思わず眼を瞑る。そのまま僕は、ぎゅっと眼を強く閉じていた。
「大丈夫、眼を開けてごらん」
 纏わりつくような男の声が耳元でする。それでも僕は眼を開けない。
 暗いはずの眼下の視界は、眩しい光のせいで白く点滅していた。その点滅する視界に酔いそうだ。
 それでも僕は眼を開けない。開けてはいけないと、誰かが僕の中で叫んでいる。
「ほら、君の愛しい人がそこでまっているよ……」
 男の囁きが煩い。僕はそっと眼を薄くけていた。
「あぁ、ほら見て御覧。この世でもっとも美しいものが、ここにはあるんだ……」
 男の甘い吐息が、僕の首筋にかかる。僕は恐くなって瞼を震わせていた。そのせいで、なかなか眼を開けることが出来ない。
「ほら、彼がそこにいるのに……」
 男の声が、悲壮なものになる。
 彼が、僕の眼の前にいる。その言葉を受け、僕は眼を見開いていた。
 眩い視界に、無数の灯りが映りこむ。僕は思わず顔をあげ、天井を見上げていた。
 少年がいた。
 たくさんの美しい少年たちがいた。
 裸の少年たちが、足を一括りにされて天井からぶら下げられているのだ。円形に配置された彼らは体を逸らし天井を見つめている。口は耳元まで切り裂かれ、そこから覗く水晶の歯が美しく煌めいていた。
 引き延ばされた舌はスプーンのように加工され、その舌の上に火のついた蠟燭が置かれていた。
 僕は口を大きく開けて叫んでいた。
 耳元で男の嘲笑が聞こえる。ぎょろりと、シャンデリアにされた少年たちの眼がいっせいに僕へと向けられる。
 がくりと僕は膝を折っていた。体が震えて、カチカチと歯が鳴る。その音が頭蓋に響く。じんと下半身が暖かくなって。僕は失禁していた。
「生きて……る?」
「そう、彼らは生きた調度品だ!」
 うっとりとした声があがり、男が僕の肩を掴んでくる。僕は悲鳴をこらえ、男へと向き直っていた。
「でも、彼らはもっと美しいよ……」
 蕩けるような男の眼は、僕の前方へと向けられている。僕は部屋の中を見回していた。
 無数の円柱の形をした水槽が、部屋を埋め尽くしていた。その中に、裸の少年たちが浮かんでいたのだ。
 たゆたう彼らの眼は虚ろで、髪はまるで海藻のように液体の中を漂っている。
 腹を切り開かれ腸を液体の中にぶちまけている少年。上半身だけを液体の中に浮かべている少年。まるで牧神パンのごとく頭部から角を生やし、牛のような足を持つ少年。
 色鮮やかな熱帯魚と一緒に円柱に閉じ込められている少年もいれば、下半身が人魚のそれと同じ少年もいる。
 円柱の隙間には、大きな金魚鉢がたくさん置かれていた。その1つ1つに、少年たちの足や、手や、美しい頭部が液体とともに漬けられているのだ。
 それは、大量のホルマリン漬けだった。
 美しい少年たちのホルマリン漬けだった。
 そして、そのホルマリンの中央に、彼は鎮座していたのだ。
 ひときわ大きな水槽に入れられて、彼はホルマリン液の中に浮かんでいた。彼の背には巨大な骨の翼が生えていた。顔に穏やかな微笑を浮かべ、彼はじっと虚空を見つめている。
「あ……あ」
 僕は立ち上がり、よろよろと彼のもとへと歩んでいた。円柱の水槽に震える手を巻きつけ、僕は顔をあげる。
「なんで……なんで……なんでだよっ!」
 僕が叫んでも彼は虚空を見つめるばかりだ。僕はその場に力なく膝をつくことしかできない。
「なんで……」
 地面に手をつき、僕は小さく呟いていた。視界が揺らいで、僕の手の甲に涙が落ちていく。顔をあげると、歪んだ視界に微笑む彼の姿が映りこむ。
「そのガニュメデスは、私の最高傑作だ。でも、まだ未完成なんだよ……」
 男の声がした。ざわりと、僕は心が荒立つのを感じる。僕は男を振り返り、彼を睨みつけていた。
「美しい……。君は本当に美しいよ……」
 怒る僕を、彼は陶然と眺めてくる。彼はゆっくり僕へと近づいてきた。
「足りないピースはここにある。未完成品は、そのピースを足すことで完成するんだ……」
「何を言って――」
「彼がそれを望んでいるじゃないか?」
 僕の言葉は男の声に遮られる。男は僕の後方にいる彼を見つめていた。視線を感じ、僕は急いで後方へと振り向く。
 虚空に向けられていた彼の眼が、僕を見つめている。引き結んだ唇を動かし、彼は僕に微笑みかけて来たのだ。



  僕は水槽の中にいた。ふわふわと液体の中に僕の体は漂っている。僕の眼の前には、彼がいる。彼が僕を抱きしめて微笑んでいる。そんな僕も彼を抱きしめ微笑んでいた。
 彼は、ホルマリンに閉じ込められることで自分の思いを封印しようとしたらしい。僕に対する、いけない気持ちを。
 僕は、一度彼を拒絶した。
 でも、今は――
 僕は彼に微笑みを送り続ける。彼もまた、僕に微笑み返してくれる。
 ずっとずっと僕らは一緒だ。
 このたゆたう液体の中で、少年たちが永遠に美しさを保つ歪んだオリュンポスの園で、僕らは永遠に愛し合う。



 

            

ケモノの物書き堂はナマケモノの一次創作ブログです。創作関連の最新情報はこちらまで。

 

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