ライト・ドール

 雨が降る。
 リリスはじっとお父さんの墓標を見つめていた。雨に彼女の喪服は濡れ、スカートの裾からは雫が滴り落ちていく。
 体が冷たい。
 それでもリリスは、その場を離れない。
 
 大好きだったお父さんの手をリリスは思い出していた。万年筆で流れるように文字を書くお父さんの手は温かくて、いつも優しくリリスを撫でてくれた。
 その手から生み出される物語が、リリスは大好きだった。
 
 たった1人の大切な家族。そのお父さんが、いなくなった。
 ぴちゃんと、頭上で音がする。リリスは、空を仰ぐ。濡れた葉から鈍い雨音がする。
 
 ぴん、ぴん、ぴん――
 
 葉っぱが歌っているとリリスは思った。大好きなお父さんだったら、リリスにそう言ってくれたに違いない。
 ふっと目頭が熱くなって、リリスは眼を拭っていた。込み上げてくるものを堪えながら、葉っぱを見上げる。

「ピン、ピン、ピン……」
 
 葉が雨を弾く音を、口にしてみる。リリスの声に応えるように、葉の奏でる音は賑やかになっていく。

 「ぴんぴんぴんぴん!」
 
 リリスは笑っていた。葉の音に合わせ、愛らしい声を発する。くるくると体を回して、ダンスを踊ってみる。
 雨の中、こうやってお父さんと踊ったことがあった。
 
 一緒に雨音を口ずさんで、雨の中をクルクルと2人で回った。
 ぎゅっとリリスの手を握る父さんの手は、温かくて――

「お父さん……」

  不意に、独りであることを思い出して、リリスはとまる。
 リリスの手を優しく握ってくれる人は、もういない。

「おとう……さん」
 
 ほろほろと、リリスの眼から涙が溢れ出す。リリスは涙を一生懸命に拭うが、涙は止まってくれない。

「ぴん、ぴん、ぴん、ぴん……」
 
 そんなリリスの耳に、小さな声が聞こえた。優しそうなその声は、だんだんとリリスに近づいてくる。

 

「だれ……」
 
 大きな眼をまん丸にして、リリスは自分に近づいてきた人物を見上げる。
 その人物は、傘を差した青年だった。
 
 整った顔立ちに嵌った緑色の眼が印象的だ。まるで、雨を受けた葉のように濃い色をしている。その眼を細めて、青年はリリスに
微笑みかけていた。

「雨、好きなの?」
 
 彼はかがみ込み、リリスに傘を差しかけてきた。雨が体に当たらなくなる。
とたん、リリスは体に冷たさを感じ、自身を

 抱いていた。青年が驚いてように眼を見開いて、リリスの頬に手を充ててくる。
冷たい感触が頬いっぱいに広がる。驚いて、リリスは青年の手を払いのけていた。青年の手は、まるで金属のような感触をしていた。

「誰……」
 
 震えた声を、リリスは彼にかけていた。青年は明らかに人ではない。得体の知れない彼への恐怖が、リリスの心を満たしていく。

「やっぱり、怖いかな……」
 
 青年の眼が寂しげに細められた。彼は傘を斜めに傾け、頭上を仰ぐ。彼の上には、雨で濃く染まった葉が、生い茂っていた。

 

「ぴん、ぴんって、一緒に歌いたかっただけなんだけど……」
 
 ぱしぃん、ぱしぃん……。
 
 静かに雨音が傘を鳴らしていく。彼は、その音を聴きながら悲しげに眼を細めてみせた。

「ぴん、ぴん、ぴん……」
 
 リリスは呟いていた。その声に驚いたのか、青年が顔を向けてくる。

「ぴん、ぴん、ぴん!」
 
 声を弾ませ、リリスに笑ってみせる。
彼のことは、少しだけ怖い。でも、寂しげな彼の眼がリリスの心を変えた。
 この人は、リリスと同じように独りぼっちなんだ。だから、あんな悲しげな眼で濡れた葉っぱを見つめていた。
 だったら、一緒に遊んだほうが楽しい。

「ぴん! ぴん! ぴん!」
 
 青年の両手を、リリスは握り締める。金属のようにひんやりとした感触が、心地よかった。

 「ぴん、ぴん、ぴぃん!!」
  葉の生い茂る木下から躍り出て、2人は緑の草の上で踊る。
 笑みを深め、リリスは繋いだ手を揺らしてみせる。彼は口元に笑みを浮かべ、リリスと一緒になって体を回し始めた。

 
 くるくる、くるくる。
 
 雨を弾く葉音をメロディに、ダンスを踊る。
 笑い声が、弾ける。優しい雨音が、2人を包み込んでいく。
 温かい雨を体いっぱいに浴びながら、手を繋いだ2人は微笑みながらダンスを続けた。

 

 

 

 

 

 彼の手が好きだ。
 筆を走らせる彼の手の動きが。その手から生み出される規則正しい音が。彼が書く美しい文字が。
 
 万年筆を紙に走らせるアダムの手を見つめながら、リリスは物語を口ずさむ。彼は机に座り、リリスの口ずさむ物語を書きとっていく。
 
 窓辺に佇むリリスをアダムが緑の眼で見つめてきた。アダムは眼を笑みの形にして、リリスの口ずさむ物語を紙に書いていくのだ。
 
 リリスは筆を走らせるアダムを見つめる。7つのときに父を亡くしてから、アダムはずっとリリスと暮らしてきた。
 
 あのときと違い、小さかったリリスは成長し、美しい大人の女性になろうとしていた。だが、アダムの外見は、出会った頃と少しも変わらない。
 
 深い緑の眼を持つ、美しい青年のままだ。
 ライト・ドール 初期ロット NO 001 アダム
 
 それが、アダムの正式名称だ。
 ライト・ドールとは、とある財団が作り出した機会人形の総称だ。
財団の名は『ノアの方舟』。身寄りを亡くした富裕層の子供たちの身の安全、及び親から受け継いだ財産を守るために設立された財団だ。

 アダムはライト・ドールの1体であり、記念すべき試作第一号機だった。
 
 ライト・ドールの役目は、身寄りを亡くした子供たちの後継人となり、成人した彼らが親の財産を受け継ぐまで面倒をみることだ。

 Light――英語で光を意味する単語。

 Doll ――英語で人形を意味する単語
 
 その名のとおり、ライト・ドールは親という導きを失った子供たちを照らす存在だ。彼らは身寄りを亡くした子供たちに寄り添い、家族として共に過ごす。
 そして、子供たちが成長すると――

 

 

「今日はもう、やめにしましょう、アダム……」
 
リリスは静かにアダムに告げる。アダムは手をとめ、悲しげにリリスを見つめた。

「もう少しぐらいいいじゃないですか、リリス。まだ、僕は書き終わっていない……」

「書いて、何になるの?」

「少しでも、あなたと過ごした証を残したいんです……」
 
 寂しげに、アダムは自分の文字が書かれた紙を見つめた。
 アダムの指が、紙に書かれた文字をなぞる。アダムの書いた文字は流れるように美しい。その文字を書いたことさえ、もうすぐアダムは忘れてしまう。

「僕が、僕であった証を、ここに残したいのです……」

 紙から指を離し、アダムは胸に手を当てた。窓硝子を雨が叩く。彼は懐かしそうに眼を細め、窓を見つめた。

「ぴん、ぴん……」

 アダムが呟く。
 彼は窓の外でゆれる木の葉を眺めていた。

「ぴん、ぴん……」
 
 雨に弾かれる葉の動きに合わせ、アダムは言葉を紡いでいた。

「やめてよ、アダムっ」
 
 思わず、リリスは言葉を発していた。彼の声を聞きたくない、その一心で声を荒らげてしまう。

「すみません、リリス……」
 
 アダムが俯いてしまう。リリスは大きく眼を見開き、彼に視線をやった。

「でも、リリスだけには、この音を覚えていて欲しいんです……」
 
 アダムの顔がリリスに向けられる。寂しそうに細められた彼の眼は、濡れた葉のように潤んでいた。
 
 アダムは涙を流すことができない。それでも彼は、悲しそうな細めリリスに微笑みかけてくるのだ。
 
 ライト・ドールは涙を流さない。彼らに涙は必要ないそうだ。
 親を喪った子供たちに必要なのは、悲しみではなく喜びを与えてくれる存在だから。
 
 それがどんなに残酷なことか、ライト・ドールを作った大人たちは知らない。
 これから大人になるリリスは、嫌というほど知っているのに。

「6月30日……」
 
 自分の誕生日をリリスは呟いていた。アダムの背後に広がる雨景色を見つめながら、リリスは彼と出会った頃のことを思い出していた。

 雨の降っていた日だった。
 童話作家であった父が死んで、リリスが7歳のになった日のことだ。

 新しい家族として、リリスのもとにアダムはやってきた。葬儀が終わっても父親の墓の前から動かなかったリリスに、アダムは傘をさしかけ、微笑みかけてくれた。

 そして、雨音をメロディに2人でダンスを踊ったのだ。

 あのときのことを、リリスは今でも忘れることができない。
澱んでいた心が明るくなって、笑うリリスの手を、アダムが優しく握ってくれた。
 
 そしてまた、6月30日が巡ってくる。
 
 アダムと出会った日は、アダムとの別れの日になろうとしているのだ。

「私が、大人になるのね……」

「そうですね……」

「そしたらアダムは、別の子供のところへいく……」

「新しい存在になるといった方が、良いのかもしれません……」
 
 リリスの言葉に、アダムは寂しげに笑ってみせた。リリスは成人し、父の残した財産を相続することになる。

 そうなれば、アダムはリリスの後継人という役目を終えることになるのだ。
 
――いいかいリリス。アダムはね、リリスが大人になったら全てを忘れなければならないんだよ。
 
リリスは、おじいちゃんの言葉を思い出していた。ノアの財団を取りまとめる彼は、財団が世話をしている子供たちから親しみを込めて『おじいちゃん』と呼ばれている。
 
その彼が小さなリリスに告げたのだ。
 ライト・ドールは孤独な子供たちに寄り添い、その子供たちを愛するためだけに存在している。
 だから、以前世話をした子供たちとの記憶は、邪魔になるのだという。

ライト・ドールが特定の子供に執着しないように。孤独な子供たちにライト・ドールという『新たな家族』がきちんと行き渡るように、彼らは記憶を消されてしまう。

​だから、アダムはリリスのもとへ来たとき 、何の記憶も持っていなかった。
 
 ――ここに来る前のことはな何も覚えていません。だから、リリスしか自分にはいないんです。
 
 そう、悲しげに笑ったアダムの顔を、リリスは鮮明に思い出すことができる。
 
 そしてまた、アダムは記憶を消される。
 
 アダムはリリスと過ごした記憶を全て消去され、新たな子供のもとへと行く。
 
 雨の中でダンスを踊った思い出。リリスの語る物語を綴る日々。
 今この瞬間に交わされている会話すら、アダムは忘れてしまう。
 
 それはもう、リリスの知っているアダムではない。

「リリス、物語を聞かせてください」

「アダム……」

「頼みます。でないと僕は、この瞬間も、私でいられなくなる気がしてしまう……」
 
 アダムの声が震えている。リリスは、そっと彼に近づいていた。椅子に座るアダムは、縋るようにリリスを見つめてくる。

 リリスは何も言わず、彼の頭を胸元に抱き寄せていた。

「おかしいですよね……リリス」
 
 アダムが笑う。彼の声は、さきほどよりも震えていた。その震える声で、アダムは言葉を紡ぐ。

「リリスのもとに来る少し前、財団の本部に1人の女性が来たことがあったんです。僕を見て、彼女はアダム、戻ってきてアダムって僕に何度も叫びました。でも、僕は彼女が誰だか分からなくて……。でも、無性に悲しくなって……僕は、彼女のもとから……」
 
 アダムが言葉を切る。
 彼は寂しげにリリスに微笑んでみせた。その微笑みが、とても痛々しい。

「涙を流すことができないのに、自分が自分でなくなる事が怖いんです……。あなたを、忘れることが怖いんです……。怖いんですよ……リリス……」

「大丈夫よ、アダム。大丈夫……」
 
 リリスの眼は、熱を持っていた。
 涙を堪えながら、リリスはアダムに囁きかける。アダムは、そんなリリスに甘えるように、リリスの体を抱き寄せてきた。
 
 ひんやりとしたアダムの手が、背中にとどく。
金属でできたアダムの手。独りぼっちだったリリスに差し伸べられた、優しい手。

 その手を、リリスは失おうとしていた。

 

 

​ ​ リリスが物語を紡いで、アダムが書く。その作業を、もう何年続けているだろうか。

「初めに私がお話を作ったのは、ベッドの上だったわね……」
 
 ベッドに横たわるリリスは、アダムに声をかけていた。
 アダムはベッドの縁に座っている。リリスはアダムの手を握り締め、彼に微笑みかける。アダムは恥ずかしそうに視線を逸らし、リリスに返した。

「すみません……こんな……」

「いいのよ、私が大きくなってからは、ずっと別の部屋で寝てたもの。でも、アダムは寂しがってよく私の部屋に来た」

「あれは、リリスが眠れないと思ってホットミルクを持っていっただけで……」

「私のお話が終わるまで、自分の部屋に帰らなかったくせして……」

「すみません……」

「アダムは、謝ってばっかりね」
 
 ぷくっと頬を膨らませ、リリスはアダムを睨みつける。アダムは困ったように眼をゆら
し言った。

「すみません」

「また、謝ってる」
 
 リリスは苦笑して、体を起き上がらせていた。アダムの手を強く握り締め、リリスは彼
の体に寄りかかる。

「リリスっ」

「謝る必要なんかないの。アダムのお陰で、私はお父さんみたいに物語が書けるようになった。アダムが私の話を楽しく聴いてくれるから、私はお父さんと同じ童話作家になれたのよ……」
 
 初めて物語を作ったのは、いつだったか。
リリスと暮らすより前の出来事を、何ひとつ覚えていない。そう言って、アダムはよく寂しげに笑っていた。

 そんな彼を元気づけたくて、リリスは即興で作った話を彼に聞かせたのだ。

​ 世辞にもうまいとはいえない行き当たりばったりの話。それでもアダムは、楽しそう
にその話を聞いてくれた。
 
 お話は、アダムをモデルにした、独りぼっちのロボットの物語だった。ロボットは小さ
な女の子と友達になって、その女の子と雨の中でダンスを踊るのだ。
 
 アダムとリリスの出会いをもとにした、恥ずかしい処女作だ。
 
 アダムはリリスの作った話を書き留めるようになる。彼がこっそり出版社に送った原稿
が編集者の目にとまり、リリスは童話作家として収入を得るようになった。
 
 その収入は、身寄りのない子供たちへの寄付金に充てられている。

「私はもう大丈夫。だからね、アダム。アダムは、アダムを待っている子のところへ行ってあげて……。アダムの思い出は、ちゃんとここにあるから。ちゃんと、私が全部覚えてるから……」
 
 声が、震えてしまう。それでもリリスは顔をあげ、アダムに微笑んでみせた。
 アダムが次の道へと、進めるように。

 ――君は、覚悟しないといけないよ、リリス。アダムとのお別れの日を、ちゃんと迎えられるように。そうでないと、君のように寂しいままの子供たちが、世界に溢れてしまうんだ。
 
 おじいちゃんの言葉を思い出す。アダムが記憶を消されると告げられたとき、リリスは嫌だと泣きじゃくった。
 
 そんなリリスの眼をじっと見つめ、アダムの開発者であるおじいちゃんは言ったのだ。
 
 彼もまた、幼い頃に両親を亡くし孤独な思いをしたそうだ。両親が残した莫大な財産を巡って、親戚たちは彼の親権を争いあった。金に眼の眩んだ大人たちは、寂しい彼の気持ちに気づくことなどなかった。
 
 そんな思いをする子供を少しでも減らしたい。そんな思いから『おじいちゃん』は財団を設立し、子供たちを保護するライト・ドールを作ったのだ。
 
 だから、リリスはアダムを笑顔で送り出さなければいけない。自分と同じ孤独な子供をアダムが救えるように。
 でも、本当は――

​  堪えているものがこみ上げてきて、リリスは顔をさげていた。アダムに顔が見えないよう、リリスは彼の胸元に顔を押し付ける。

「リリス、ありがとう……」
 
 アダムの震える声が聞こえる。
彼は冷たい手で、優しくリリスを抱きしめてくれた。

「ねぇ、リリス。物語を聞かせてくれませんか?」

「えっ?」
 
 アダムが耳元で囁く。驚いて、リリスは彼の顔を見上げていた。彼は緑の眼に笑みを浮かべている。

「リリスが1番初めに聞かせてくれた、寂しがり屋のロボットのお話。もう1度、聞きたいんです」

「いいけど……その、ちょっと直していい?」
 
 気まずそうにリリスはアダムに訪ねていた。子供の頃の自分が恨めしい。

 物語の中で仲良くなったロボットと女の子は、人間を虐める悪魔を倒すため、旅に出かける。
 旅に出たと思ったらいきなり悪魔が2人の前に現れて、女の子の「エイや!!」の一言で悪魔は倒されてしまうのだ。

 そのあとロボットはなぜか王子様になって、女の子に愛の告白をする。

 そして女の子は王子様と――

 リリスは、頬が熱くなるのを感じていた。ぶんぶんと頭を振って、リリスは恥ずかしいラストを忘れようとする。

「どうしたの、リリス?」

「何でもないわ、アダム……。お話は、明日でもいいかしら?」

 リリスは笑みを取り繕い、アダムに返事をした。
あんな滅茶苦茶なお話を、アダムに聞かせるわけにはいかない。

独りよがりだし、何よりラストが恥ずかしすぎる。

それに――

「明日、ですか……」
 
 アダムが寂しげに眼を伏せてくる。

「ごめん、どうしてもちゃんとしたお話にして、アダムに聞かせてあげたいの。ワガママ、かな?」

「そんなことないですよ。お話楽しみにしてます」
 
 アダムが笑う。
 美しく煌く彼の眼を見て、リリスは胸を高鳴らせていた。

 彼の眼が好きだ。

 濡れた葉のように濃い緑色の眼は、いつも優しくリリスを見守ってくれる。
 でも、その眼差しすらリリスは失う事になる。
 
 彼には、とっておきの物語を贈りたい。

 彼と過ごせる時間は、あとわずかなのだから――。

 

 

 

 

 

 6月30日が巡ってきた。
 出会ったときと同じように、空からは雨が降ってくる。
 
 霧雨に煙る駅のホームに黒い汽車がやってくる。その汽笛の音を聴きながら、リリスは顔をあげていた。
 
 リリスは、アダムとともにホームのベンチに腰掛けている。アダムは手に持った手帳に、一心不乱にペンを走らせていた。
 
 もうすぐ別れの瞬間が近づいているというのに、彼はリリスを見ようとすらしない。あたりには、アダムが万年筆を走らせる音だけが木霊している。
 
 これから汽車に乗って、アダムは財団の本部へと帰るのだ。そこで彼は記憶を消される。
 
 リリスの知っているアダムは、どこにもいなくなる。

「アダム……」
 
 急に不安になって、リリスはアダムに呼びかけていた。アダムはその呼びかけに応えることなく、万年筆を手帳に走らせるだけだ。

「アダムっ」

「出来たっ」
 
 リリスの声を、アダムの弾んだ言葉が遮った。

「できましたよ、リリス」
 
 彼は嬉しそうに眼を綻ばせ、リリスに微笑みかけてくる。そっとアダムは、万年筆を走らせていた手帳を、リリスに差し出した。
 
 雨に濡れた葉を想わせる、深緑の手帳。金文字で手帳の表紙には、リリスの名前が刻印されている。

「これ……」

「リリスが聴かせてくれた物語を全て書き写しました。すごく時間かかちゃたけど……。でも、これでもう怖くない……。僕はもう、僕でなくならなくていいんです」
 
汽笛が鳴る。アダムの乗る、汽車が出発する挨拶だ。アダムは、リリスの手を取り、手帳
を握らせた。

「物語のロボット、凄く好きでした。だって、僕に凄く似てるんだもん。だから、どうしても彼の物語を文字にしたくなった。リリス、これは僕が、僕でいた証です。君が僕を永遠にしてくれた――」
 
 アダムが、微笑む。深い緑の眼は、優しくリリスだけを映していた。

​ そっと彼はリリスの頬を撫で、リリスの唇をなぞる。その唇に、アダムは自分のそれを重ねてきた。

 眼を瞑ったアダムの顔が、目の前にある。

 ただ、唇に広がる柔らかな感触をリリスは感じていた。

 汽笛が鳴る。
 アダムの顔が離れていく。彼は寂しげに眼を歪めて、リリスから顔を背けた。

 彼はベンチから立ち上がり、汽車に向かって駆けていく。

 まるでリリスから、逃げるように――

「アダムっ!」
 
 リリスは叫んでいた。
 アダムを追うが、彼は汽車に跳び乗ってしまう。汽車は汽笛を甲高くならし、駅のホームから走り去っていく。

「アダムっ!!」
 
 それでもリリスは汽車を追った。
 アダムから貰った手帳を胸に抱き、ホームの柵を越える。レールを走る、土手を駆ける。

「アダムっ!」
 
 叫んでも、アダムは応えてくれない。汽車との距離はどんどん遠くなり、息が荒くなる。
それでもリリスは、アダムを追いかける。

「あっ――」
 
 瞬間、リリスの視界がぐらついた。躓いたと気がつきたときには、遅かった。地面が眼の前に飛び込んできて、痛みが体中に広がる。
 
 汽車の走行音が、瞬く間に遠くへと去っていく。

「アダム……」
 
 地面を見つめながら、リリスはアダムの名を呼んでいた。
 目頭が熱くなって、涙が零れてしまう。

「リリスっ!」
 アダムの叫び声が聞こえた。
 
 リリスは急いで顔をあげる。汽車の最後尾にアダムがいた。アダムは車掌車の鉄柵から身を乗り出し、リリスの名前を呼び続けている。
 
 彼は鉄柵に足を駆け、大きく跳んだ。

​ 

「リリスっ!!」
 
 走り去る汽車から跳び降り、アダムは倒れているリリスのもとへと駆けてくる。起き上がり、リリスは涙を拭っていた。

「アダムっ!!」
 
 満面の笑顔を浮かべて、リリスはアダムを呼ぶ。
雨の中、2人はお互いに駆け寄り合い、体を

抱きしめ合う。
「リリス、リリス……」
 
 囁くように。アダムが名前を呼んでくれる。

「アダム……。ちゃんと、ここにいるのね……」

「ちゃんと、いますよ」
 
 たしかめるようにリリスは彼に言葉をかけていた。アダムは、リリスを抱き寄せ優しく答えてくれる。

 不意に、アダムの腕がリリスの頭と腰に回された。彼はリリスを横抱きにして、駆け出す。

「ちょ、アダムっ?」

「ぴん……ぴん……ぴん」
 
 アダムは空を仰ぎ、言葉を紡いでいた。
 リリスは頭上を見上げる。いつの間にか線路の走る土手は鬱蒼とした木々に覆われていた。

 リリスの視界を緑の葉が遮る。葉は雨に打たれ、ぴんぴんと小さい音を奏でていた、

「ぴん、ぴん、ぴん」
 
 葉が奏でる音に合わせ、リリスは言葉を紡ぐ。
「ぴん、ぴん、ぴん」
 
 アダムがリリスの顔を覗き込み、微笑みながら言葉を追いかける。

「ぴん、ぴん、ぴん」

「ぴん、ぴん、ぴん」
 
 2人の声が、重なる。アダムはリリスを地面に下ろし、その両手を握り締めた。リリスも、アダムの手を握り返す。

 ひんやりとした、アダムの手。冷たくて心地がいい、愛しい人の手。
 
 例え彼が人でなくても、リリスにとってアダムは――
 
 雨音がする。葉が、雨を弾く。
 
 ぴん、ぴん、ぴぃん。
 
 雫をたらしながら、音を奏でる。その音に合わせ、アダムとリリスはダンスを踊っていた。
 
 優しい雨音が、くるくると回る2人を包み込む。その雨音とともに、2人は笑い声を紡いでいく。
 
 出会った頃と同じように。しっかりと、手を繋ぎあって。
 
 笑い合う2人は線路の走る土手を走り、雨に濡れた草原を駆け抜ける。お互いを抱きしめ合って、下草の上へと横たわった。
 
 灰色の雨空が、リリスの視界に映り込む。ふっと、リリスの眼に涙が宿る。

「ごめん……なさい」
 
 リリスは、震えて声を喉から絞り出していた。

 涙に歪んだ眼を、横にいるアダムに向ける。アダムは、優しく微笑みを返してくれた。

「良いんです、これで……。だってもう僕は、僕であることをやめたくない。リリスを、忘れたくない。だから、これでいいんです……」 
 
 アダムの腕が、優しくリリスを抱き寄せる。

「でも……」
 アダムに言葉を返すことができない。
 彼は、財団の所有物だ。
もし命令に逆らい記憶を消去されることを拒めば、ただではすまない。

 最悪、処分されることすらありえる。
 
 それでも彼は、彼でいることを選んだ。
 リリスと過ごした日々は、アダムにとってかけがえのないものだから。

「リリスがいたから、私は私になることが出来た……」
 
 アダムの眦に雨雫が留まる。雫は、静かにアダムの頬を流れていった。
 
 まるで、涙のように。彼の眼は、悲しげにゆらめいて見えた。

「嫌よ……」
 
 リリスは口を開いていた。驚くように眼を見開くアダムをリリスは見すえる。

「ずっと、一緒じゃなきゃ、嫌……。絶対に、一緒にいるの」
 
 アダムの頬に手を宛て、リリスは彼の眦に溜まった雫を指でどける。
そっとリリスは彼に微笑む。
 
 リリスは彼の唇に、静かにキスをしていた。

 

 

 

 

 彼の手が好きだ。
 筆を走らせる彼の手の動きが。その手から生み出される規則正しい音が。彼が書く美しい文字が。
 
 ベッドに寝そべるリリスは、窓辺の机に腰掛けるアダムを見つめていた。昔と変わらず、アダムは若い青年の姿のままだ。年老いて、足腰が弱くなって自分とは違う。
 
 それでも、彼が万年筆を走らせる音は、変わらず心地がいい。

「そろそろ休みましょうか。アダム……」
 
 皺の多くなった顔に笑みを浮かべ、リリスはアダムを呼ぶ。アダムは手を止め、リリスに顔を巡らせた。

「あぁ、そうですね。子供たちがそろそろ来る」
 
 窓外を見つめながら、アダムは弾んだ声を発した。
 
 窓の外からは、優しい雨音と、子供たちのはしゃぐ声が聞こえてくる。
 ここは、リリスが父親から相続した財産でつくった孤児院だ。
 
 ――みんなで一緒に、家族になりましょう。
 
 アダムの記憶を守るために、リリスはおじいちゃんにそう告げた。

 ライト・ドールは孤独な子供たちに希望を与えてくれる。だが、大人になった彼らは愛しい家族となったライト・ドールたちを失い、また孤独を味合わなくてはならない。

 アダムを失おうとしていた、リリスのように。

 そんな思いをライト・ドールと過ごす子供たちに味あわせたくはない。だから、大きな施設を作って、家族としてそこでみんなで暮らそうとリリスは提案したのだ。
 
 ――君に、母親になる覚悟はあるかい?
 
 そう苦笑しながら、おじいちゃんはリリスに問いかけた。リリスは力強く頷き、父親から相続した遺産をもとに、この孤児院を作ったのだ。
 
 ここでは多くのライト・ドールたちとともに、身寄りのない子供たちが生活している。
 ライト・ドールたちの記憶が消されることは、2度とない。

​ 

「おばーちゃーん! リリス、おばーちゃん!!」

「おばー!!」

「リリスおばさん!!」
 無邪気な声をともに部屋のドアが開けられる。
リリスは、眼を丸くして部屋へと入ってくる

 子供たちを見つめた。子供たちは手にたくさんの花束と、プレゼントを抱えている。

「今日は、何かのお祝いかしら?」

「リリスっってば」
 
 ぽかんとするリリスに、アダムが笑いながら声をかけた。アダムは机から立ち上がり、リリスのもとへとやって来る。

「6月30日。今日はあなたの誕生日ですよ」

「あら、そうだったの」
 リリスは両手を叩き、子供たちを見つめた。

「おばあちゃん、忘れっぽすぎ」

「年取り過ぎだよっ」
 
 どっと子供たちが笑う。

「リリスは、おばちゃんになっても素敵です」
 
 そんな子供たちの反応に気を悪くしたのか、アダムがむぅっと頬を膨らませた。彼は、ぎゅっとリリスの頭を抱き寄せてくる。

「相変わらずだよなぁ、アダムは」

「ほんと、おばあちゃんのお話に出てくるロボットとは大違い」

「子供!!」

「子供に、子供って言われなくないです!!」
 
 アダムは子供たちに怒鳴り声をあげていた。はぁっとため息をついて、リリスはアダムを見つめる。アダムは、嬉しそうに眼を細めていた。
 この緑の眼は、ずっと自分を見守ってくれている。そしてこれからも、この院に来る子供たちを見守っていてくれるのだ。

「みんな、お話の続き聞きたくない?」
 
 リリスは微笑み、子供たちに話しかけていた。

 

​​「ほんと?」

「聞かせて、聞かせて」

「ロボットと女の子、どうなるの?」

 子供たちは眼を輝かせ、わあっとベッドに集まってくる。
 
 ロボットと女の子のお話。
 
 それは、童話作家であるリリスの代表作でもあり、処女作でもあった。
 
 アダムが託してくれた深緑の手帳を思い出す。
 小さな頃、寂しそうなアダムに聞かせたお話。財団に帰ることになったアダムに、リリスは手直ししたロボットと女の子のお話を聞かせた。
 
 その話を、アダムは手帳に書き記してくれたのだ。
 
 リリスとの思い出を、永遠にするために。
 
 その話は本となって、多くの人に読み継がれている。今もリリスはお話の続きを作り続けているのだ。
「アダム、さっきまで話した分、書き取れているかしら?」

「えぇ、子供たちに読ませて聞かせますね」
 
 リリスの問いにアダムは微笑んで答える。彼はリリスから離れ、机へと戻っていった。
 
 アダムは今でも、リリスの考えた話を書き綴ってくれる。
 
 冷たい、優しい感触に溢れた、彼の手で。
 
 リリスの物語は、アダムによって書き綴られていくのだ。
 
 それは、小さな物語。
 
 寂しがり屋のロボットと、独りぼっちだった女の子の、恋のお話。

 

 

 



 

ケモノの物書き堂はナマケモノの一次創作ブログです。創作関連の最新情報はこちらまで。

 

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