​風鈴通路

 ふわりと、風鈴がゆれていた。

 りぃんりぃんと音が鳴る。その音が気になって、陽介は顔をあげていた。花をつけていない藤棚に風鈴が吊るされている。旧暦ではもう秋になるというのに、夏の風情はまだ抜けない。陽介の目の前にいる少女も、涼やかな浴衣姿をしていた。

「いつみても綺麗だなぁ。涼華公園の風鈴通路。お祭り期間中に来たかったよぉ」

 紺青の裾を翻し、少女は軽やかに回ってみせる。ときおり見えるうなじから、黒く日焼けした肌と、白い水着の跡が垣間見えた。

 すっと陽介の頬は高揚していた。そんな陽介にかまうことなく、幼馴染の結夏は舌をだして悪戯っぽく微笑みかけてくる。陽介の頬が熱を持つ。ほんのりと涼やかな風が顔を通り過ぎて、その熱を冷ましてくれた。

 秋だなっと、陽介は思った。

風鈴の通路の向こう側には、たくさんの赤とんぼたちが舞っている。雄と雌がつがいを求めて、くるくると空を巡ることを繰り返している。それなのに、目の前には浴衣に身を包んだ幼馴染と、風鈴の通路がある。夏と秋が、綯交ぜになった奇妙な感覚が陽介の中に生じていた。

8月の末。1週間後には新学期が始まる今日、陽介は結夏に誘われ涼華公園へとやって来たのだ。夏のあいだ、涼香公園の藤棚には風鈴が吊るされる。その涼ある景観を楽しもうと遠方からも見物客がやってくる。その見物客を相手に、屋台が集まり、夏の中頃には風鈴祭りも行われる。祭りで配られる風鈴に、人々は願いを書き、それを藤棚に吊るすのだ。

だが、水泳部に所属している結夏に風鈴通路を愛でる暇などない。毎日、毎日、部活に追われては、灼熱の太陽に肌を焼かれ、今日になってやっと束の間の休息を得ることが出来たという。夏休みの課題が未だに終わっていない陽介にしてみれば、迷惑極まりない話だった。

そう、結夏に無理やり公園に連れてこられ、陽介は迷惑を被っているはずだ。

「陽介、陽介の風鈴って、どれ?」

 鮮やかな紺青が視界を掠め、陽介は唾を飲み込む。結夏の大きな眼が顔を覗き込んできて、思わず体を仰け反らせていた。結夏の眼がかすかに曇る。甘やかな香りが、鼻腔を滑った。

 また、頬が熱を持つ。心臓が激しく脈を打って、具合が悪くなりそうだった。

「どうしたの? 顔、赤いよ……」

 熱でもあると思ったのか、結夏が額を押しつけてくる。ひんやりとした感触が体全体に広がって、陽介は心音を高鳴らせていた。頬を嬲る風は涼やかなのに、体は熱を帯びていく。

 「なんでも、ないよっ!」

 彼女の肩に手をかけ、体を引き剥がす。激しい心音が体中に響き渡っていた。

 あぁ、この音を結夏に聴かれていたりはしまいだろうか。心配になって、陽介は彼女を見つめていた。結夏は困ったように眼を綻ばせて、髪に手をあてている。風が、彼女の短い髪を弄んでいた。

 ゆらゆらと、風鈴のようにゆれる髪を見て、遠い日の記憶を思い出す。

 夜の涼華公園。ライトアップされた風鈴の藤棚を結夏と見上げていた幼い自分。結夏が、風鈴にお願いを書こうと笑顔を浮かべてきて――

「書きたかったなぁ。風鈴にお願い……」

 回想が、凛とした声に阻まれる。結夏が風鈴の通路を見つめながら、手を後ろ手に組んでいた。吊るされた風鈴は、結夏を嘲笑うようにひらひらとゆれている。

 陽介の心臓がひときわ大きく高鳴った。風鈴の通路の中には、陽介が願いを書いたものも混じっている。

 それを結夏が見つけた、らどんな風になるのだろうか。そんな、期待とも、不安ともとれる感情がぐっと湧き出てきたのだ。

 自分の風鈴を見つけて欲しくない。けれど、自分の願いを知った結夏を見てみたい。

 陽介の混乱をよそに、結夏は体を回しながら風鈴通路を歩いていく。顔をあげて、陽介の風鈴を見つけようと努めている。そのあとを、陽介はゆっくりとついていった。

 くるくる。くるくる。

 結夏が巡る。日焼けしたうなじが、柔らかくなった太陽に白く照らされる。

 りん。りん。

 頭上の風鈴が涼やかに音を奏でる。透き通った結夏の笑い声が、心地よく響いていく。

 やがて風鈴通路が終わって、蜻蛉が巡る草原にたどり着く。目の前には、町の展望が広がる。急な斜面に混み合うように瓦屋根の建物が敷き詰められ、それが彼方の海原まで続いているのだ。涼華公園まで至る道は、急な坂道で幾重も曲がり角を持っている。

 陽介と、結夏が育った海辺の町。

 じっと、町を見つめながら結夏が黙る。彼女は大きな眼を細める。入道雲が、彼女の顔にくっきりとした影をつくった。

「私ね、町を出るんだ」

 眼下の町を見つめながら、結夏が言った。

「高校は、県外に行こうと思う。水泳の強豪校、推薦で行けるかもしれないって顧問の先生が言ってくれてさ……。自分を試してみたくなったっていうか……」

 くるりと、浴衣の裾を翻し結夏が振り向いた。彼女の顔は、笑っている。困ったような、それでいて泣きそうな笑顔だった。

「だから、陽介の風鈴。どうしても見つけたかったんだ……。でも、わかんなかった。ごめんね、付き合わせちゃって。変なの、陽介にはいつだって会えるのにさ……」

 彼女の言葉が耳朶に突き刺さる。

 幼い頃の記憶が、脳裏を反芻する。

スポットライトを浴びた風鈴。風鈴の紙に、願い事を書く結夏。でも、彼女はどんな願い事を書いたのか、自分には教えてくれなかった。悔しくて、夏休みの間中、こっそり風鈴通路に通いつめ、結夏の風鈴を見つけようとした。

でも、風鈴は涼やかな音をたてるばかりで、結夏の思いがどこにあるのか教えてはくれなかった。結夏の風鈴を、陽介は見つけることができなかった。

だから、陽介は自分の風鈴に願い事を書いたのだ。結夏が一緒に祭りで来られないことを知っていながら、わざと風鈴に願いを書いて吊るしておいた。

結夏が、それを見つけたがると知っていたから。結夏が、自分の思いをたしかめることを陽介自身が望んでいたから。

「風鈴、どこで見落としちゃったのかな?」

 結夏の声が震えている。その声を聴いて、陽介は心臓を高鳴らせていた。

 風鈴の音が、りんりんと耳朶に響く。煩いぐらいに、木霊している。

 結夏の眼がじっと、陽介に向けられている。陽炎のように、その眼は頼りなさげにゆらめいていた。

 りんと、風鈴が高く鳴った。陽介は駆け出していた。結夏が、驚いたように眼を見開いた。陽介は、彼女を抱きしめていた。

「陽介……」

 結夏のかすかな声が聴こえる。心音が煩い。抱きしめた結夏の体から、高鳴る心臓の音がトクトクと伝わってくる。結夏の温もりが、体を包み込んでくれる。

「結夏の心臓、煩いよ……」

 顔を覗き込んで、陽介は結夏に微笑んでいた。結夏は驚いたように眼を見開いて、顔を逸らしてしまう。その頬が、紅葉のようにほんのりと赤い。

 彼女の頬を見て、陽介は笑みを深めていた。

 赤とんぼが2人のぐるりを巡る。伴侶を求めて、空を舞う。

 夏が終わる。秋が来て、新たな季節が巡っていく。

迫りゆく季節の移ろいを、風鈴の涼やかな音が彩っていった。