​神々の盃

神々の盃

 マナは頭に乗せていた壺を傾け、空を仰ぐ。

 硝子のような浮遊物が菫色の空に浮かんでいた。頭に乗った壺のような形をしたそれは、神々を乗せた船だという。船の中は水で溢れかえり、花々が咲き乱れる楽園だという。

 人々は、その船を神々の洋盃(コップ)と呼んでいる。

 マナは後方へと振り返る。

 砂漠がどこまでも続いていた。赤色の砂丘がなだらかに続く砂漠の果てに、緑に彩られた場所がある。集落から遠く離れたオアシス。太陽が南からのぼる朝方に集落を出て、空の真上までくる時刻にやっとたどり着く、集落の水汲み場だ。

 オアシスには水の民が定住していて、水を守ってくれている。砂漠を旅する砂の民であるマナたちは、砂漠の各地に点在するオアシスに寄っては、必要な水を物々交換により手に入れているのだ。

 水の民は、その昔神々の住む洋盃から降りてきたのだという。彼らは体にぴったりとくっつく銀の衣を纏い、新鮮な水を黄金色の球体から常に生み出している。

空中には眼に見えない水の粒が無数にあって、それを集めて水を作り出しているという。水の民は、砂漠の空気の中にも水の粒があるという。

その話が本当か、マナにはわからない。嘘とさえ、思えてしまう。

マナを取り囲む砂漠の空気はいつも乾燥していて、湿り気を少しも感じられない。

オアシスに生える木々に囲まれている瞬間が、マナは好きだ。空気が湿っていて、水の香りがほんのりと鼻腔を満たしてくれる。

オアシスには水がある。だからこそ、空気の中に水の気配を感じることができるのだ。

 でも、砂ばかりの砂漠には、水など一滴もない。だから空気も乾いているし、水の気配もない。

 生き物が住んでいる気配さえ、この砂漠の空気からは感じ取れない。

 空を仰ぐ。菫色の空を漂う神々の洋盃は、まるで死の世界である砂漠を見守っているかのようだ。

遠い昔にあの洋盃は、空の彼方にある神々の世界からやって来たという。その世界は球体で、水の溢れるチキュウという名前の場所だったそうだ。

そこで争いが起こり、神々は洋盃に乗ってこの砂の世界に逃れてきた。大地に溢れる赤い砂でマナたち砂人を創り出し、水の民を地上に遣わせて、生き物を育むオアシスを作り出した。

そんな神々の洋盃から、落ちてきた人がいる。

 彼はサディークといった。2つの月が北からのぼる夜に、マナは砂漠で倒れている彼を見つけたのだ。

 彼は、水の民のように体に密着した黄金の衣を纏っていた。彼の側には円錐の形をした巨大な銀色の物体が砂に埋まっており、その破片の一部が彼の腹部に深く突き刺さっていたのだ。

 マナは急いで彼を側にあったオアシスへと連れて行った。水の民は、神々から癒しの力を授かっている。その力にマナは縋ったのだ。

 水の民は喜んで彼の手当を引き受けてくれた。彼らは言った。サディークは神々の洋盃に住む神の一柱だと。それを助けたマナとマナの住む集落には、いくらでも水を捧げようと。

 それは願ってもいないことだった。球体から得られる水が少なくなったと、水の民はオアシスを通り過ぎる砂の民に水を供給することを拒むようになっていたのだ。

 砂の民の食料は、砂漠に無数にある赤砂だ。だが、マナたち砂の民は、水もないと生きていけない。

 喉の乾きに耐えかね、オアシスから水を盗もうとする人々もいた。中には、オアシスを襲う集落もあった。

 それらの人々はすべて、水の民が放つ不思議な閃光によって灰に変えられた。

 水の民は言う。

 これは、神々が下した裁定なのだと。神々は、いつまでたっても砂漠を移動するだけの砂の民たちに飽きたのだと。

 水を汲みに行ったマナは、その言葉を告げられ頭の壺を落としてしまった。

 神々が、自分たちを見捨てた。その言葉の意味が分からず、それでも体全体が固まってしまって、壺を落としてしまったのだ。

 水によって固められた地面に壺は落ち、音をたてて砕けた。その音を聞いてマナは深い悲しみに襲われ、泣き崩れてしまったのだ。

  ほろほろと、マナの眼から涙が流れる。その涙が、集落を潤す水になればいいのにとマナは思った。

自分に言葉を告げた水の民は、そんなマナを憐れむように見つめていた。

 サディークの存在は、そんなマナたちを救ってくれた。喉の渇きに苦しんでいた人々は、水の民が分けてくれる水によって命を繋ぐことができた。

そして水の民は、水を運ぶ人間にマナを指名した。サディークがそれを望んだそうだ。

サディークがいるオアシスに足を運ぶたび、マナは彼に会いに行った。金の服を脱ぎ捨て、癒しの泉に浸かる彼ほど美しい者はなかった。

サディークは美しい少年だ。細い体は頼りないながらもしっかりと引き締まり、褐色の肌は砂漠の赤砂を想わせる。何より、水の溢れるオアシスのように緑に輝く眼が魅惑的だった。

マナが癒しの泉に訪れるたび、サディークは緑の眼を嬉しそうに綻ばせてくれるのだ。そして、水の中から手を差し伸べてマナの柔らかい頬に触れる。彼の手が頬に触れるたび、マナはその場所が熱くなるのを感じていた。

サディークが微笑んでくれるたびに、マナは胸の奥は焼かれたように熱くなる。砂漠の空気のようにマナの心は乾ききって、彼の視線を求めてしまう。

 水を求める、幼子のように。

「サディーク……」

 マナは呟いていた。自分の言葉が心地よく耳朶に染み渡っていく。サディークの笑顔を思い出して、胸がふっと熱を帯びる。

 傷が癒え、癒しの泉から出ることができた彼は、マナの集落で暮らしている。水の民はオアシスに彼を留めておきたかったようだが、サディークは言ったのだ。

 私は、私を救ってくれた人々と共に在りたいと――

 そう水の民に言って、彼は優しい眼差しを横にいたマナに送ってくれた。オアシスの緑を想わせる美しい眼を、マナは忘れることができない。

 サディークが癒しの泉から出てまもなく、水の民は再び砂の民に水を与えるようになった。サディークの祝福を砂の民全員が受け、神々がもとのように水を与えてくれるようになったという。

 だが、集落にやって来たサディークは寂しげな顔をすることが多くなった。赤砂の砂漠を見て悲しげに眼を歪め、空に浮かぶ神々の洋盃を見て涙を流す。

 そんな彼を見るたびに、マナの胸は悲しさに苦しくなるのだ。

 砂の民はサディークを救世の神と崇める。だが、サディークは自分を罪人だという。

 神々の洋盃は、偽りの楽園だった。自分は、自分のエゴのためにその楽園を壊したのだと。

 サディークは、マナにそう語ってくれたことがある。

 サディークの罪がどんなものなのか、マナにはわからない。ただ、彼が来てくれたお陰で、マナたちは水に困ることがなくなった。

 それだけではない。マナは、彼の笑顔を見ることが何より嬉しいのだ。

 サディークが笑うとき、マナの心はふっと明るくなって喜びに包まれる。彼に会えると思えるだけで、苦痛でしかなかった水汲みがとても楽しいものになった。

 だから、マナは彼に告げたのだ。

 たった一言、ありがとうと。

 私たちのために、罪を犯してくれてありがとうと、マナはサディークに微笑みかけた。

 サディークは驚いたように眼を見開いて、唇を戦慄かせて、両手で顔を覆って泣いた。

 泣き続けるサディークを、マナはいつまでも抱きしめていた。

 頭に乗せた壺が傾いて、水が溢れる。澄んだ水の匂いを嗅いだマナは、再び神々の洋盃を仰いでいた。

 菫色の空に溶け込むように、透明な洋盃は浮いている。

 サディークは言う。もう、あそこに神々はいないのだよと。どうしてと問いかけると、彼は寂しげに微笑みながら告げてくれた。

 ――私が、神々より君たちを選んだからだ。空からずっと眺めていた君を、私が選んだからだ。

 その言葉は、今でもマナの胸に突き刺さっている。サディークが言葉とともに見せた悲しげな笑みを、マナは忘れることができない。

 その言葉を聴いたとき、マナは深い悲しみを覚えた。サディークを悲しませているのは、自分だったのだ。

 自分のために彼は罪を犯し、砂ばかりの世界に独りでやってきた。

 同時に、マナは嬉しかった。

 サディークは洋盃から自分をずっと見守ってくれていた。同胞の神々ではなく、砂の民と自分を選んでくれた。

 サディークの言葉に、マナは決意する。

 ずっと、彼と共にいようと。彼の悲しみを受け止め、彼を少しでも喜ばせようと。

 大好きな彼の、笑顔を見るために――

 今では、大嫌いだった水汲みの仕事がマナの楽しみだ。マナが持ち帰った水を飲むとき、サディークは嬉しそうに笑ってくれる。

 たった一杯の水が、彼に笑顔をくれる。その笑顔が、マナの心を潤してくれる。

「待っててね、サディーク……」

 壺を頭に乗せ直し、マナは微笑んでいた。

 神々の洋盃から視線を放し、砂漠を見つめる。なだらかな砂丘が、果てしなくどこまでも続いている。サディークが待つ集落までは、まだ着きそうもない。

 それでもマナは、歩き続ける。

 サディークの笑顔を思い描きながら、愛しい彼のもとへと帰っていく。

 彼に、一杯の水を飲ませるために。

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