彼岸の花
彼岸花《ヒガンバナ》
ヒガンバナ科の多年草。田の畦、墓地などに自生する。秋の彼岸に赤色の花を多数開く。別名 曼珠沙華
彼岸花が、田んぼに走る道の両側を埋めつくしていた。緑の稲が生い茂る田園に秋の訪
れを告げる赤が咲き乱れる。夏の光景に、秋が入り込む。
明人はその道を、自転車で走っていた。前方の自転車を鋭い視線で捉え、自転車を漕ぐ
涼花を睨みつける。
風が彼女の髪を稲穂のように翻し、明人の頬をかすめていった。
風が、涼しい。ぐるりを囲む緑の田園に視線を送ると、赤とんぼたちが透明な羽を翻し
て、飛んでいた。空に浮かぶ雲は、入道雲から鱗雲へと様変わりしていた。鱗雲のすきま
から、太陽の光が漏れている。
苛立ちに明人は舌を鳴らしていた。前方の自転車に視線を戻す。涼花は、必死になって
ペダルを漕いでいる。明人の方に振り向きさえしない。
明人は、自転車のベルを鳴らしていた。
蜻蛉が驚いて、空中で一回転する。その光景に思わず明人は眼を奪われていた。輝く蜻
蛉の羽を見て、涙に煌めいていた涼花の眼を思い出す。問い詰める自分に彼女は、悲しげな眼を向けてくるだけだった。
夏が終わって、秋がやって来る。
涼花がいなくなる――
「涼花!!」
明人は、叫んでいた。涼花の体が、びくりと震える。涼花は前のめりになって、必死に
ペダルを漕ぎ出した。
ぐんぐん、涼花を乗せた自転車は遠ざかっていく。明人は、涼花を追い続ける。それで
も、彼女との距離は縮まらない。
涼花の自転車は、坂を登り、彼岸に続く橋へと差し掛かる。道が途切れて、彼岸花の咲
く平原が明人の視界に広がった。
涼花は自転車を乗り捨て、彼岸花の中へと身を投じていた。風が吹いて、涼花の黒い髪が、赤い彼岸花の中で海藻のようにゆれていた。
明人は自転車を乗り捨て、涼花を追いかける。涼花は、明人を顧みた。彼女はじっと明人を見つめる。
「涼花っ」
明人は叫ぶ。涼花は嬉しそうに眼を綻ばせ、笑った。涼やかな笑い声を周囲に響かせながら、彼女は駆け出す。
「涼花っ」
秋人は涼花を追う。
それでも、距離は縮まらない。涼花が遠くに行ってしまう。
小さな頃から一緒だった涼花が、来月にはいなくなる。木々が紅葉し、秋が深まる季節に、彼女は遠くの町へと越すことになったのだ。
その事実を、明人はクラスの朝礼で初めて聞いた。放課後になって涼花を問いただすと、彼女は悲しげに明人を見つめてきたのだ。
そして、涼花は逃げた。
明人は廊下を走り、自転車を必死に漕いで涼花を追った。
それでも、涼花は逃げることをやめてくれない。涼花が、何を思っているのか分からず、彼女を遠くに感じてしまう。
涼花は笑いながら、彼岸花の野原を駆けていく。
その光景を見て、明人は漠然と不安に囚われた。涼花の笑声が、自分を嘲笑っているようだ。
「涼花……」
頼りない声が、唇から漏れる。その声に応えるように、涼花が笑うのをやめた。それでも、彼女は走り続ける。
「涼花……」
声が、震えてしまう。込み上げてくるものを堪えきれず、明人は立ち止まっていた。眼が熱を持って、涙が溢れてきてしまう。
明人は涙を手で拭っていた。涼花が、ゆっくりと顔を向けてきた。
涼花の顔を、夕陽が寂しげに照らしていた。
涼花がいなくなる時間が、迫っている。
涙が、止まらない。明人は顔を俯かせていた。
「鬼ごっこ、だね」
涼花が、小さく呟く。驚いて、明人は顔をあげると、涼花が微笑む姿が視界に映りこんだ。綻ばされた眼は、頼りなさげにゆらめいている。
「ここでよく、鬼ごっこしたよね。いつもジャンケンに負けて明人が鬼で、鬼のくせして足が遅くて、私を捕まえられてなくて泣いちゃって。それで私が近づくと――」
涼花の言葉を聴くことなく、明人は駆けていた。
駆けて、涼花に近づいて、彼女を力いっぱい抱きしめた。2人は、体のバランスを崩して彼岸花の海に倒れこむ。赤く染まった空が、明人の視界を塞いだ。
「捕まえた……」
明人は腕の中の彼女を、強く抱き寄せる。彼女のぬくもりが、冷たい体を温めてくれる。
涼花が、側にいる。遠くにいた彼女は、間違いなく明人の腕の中にいた。
「明人……」
涼花の声がする。涼花は、涙に濡れた眼を嬉しそうに綻ばせていた。
「捕まっちゃった……」
涼花の声が、心地よく耳朶に響く。涼花は、静かに空を見上げていた。明人も釣られて空を仰ぐ。
「彼岸花が、咲いてる……」
涼花が、呟く。
空を覆っていた鱗雲の隙間が風よって大きくなっていた。そのうねる様な隙間を縫うように、夕陽が空を照らしている。彼岸花の花弁ように、赤い筋を幾重にも伸ばしている。
冷たい風が、花畑をゆらす。その風から身をかばい合うように、明人と涼花はお互いの体を抱き寄せあった。
遠く、2人は離れ離れになる。それでも、固く心は結び合っている。
秋空に咲く彼岸花ように、2人の思いは鮮やかに花開いていく――