Three Cats 島の物語
自室のドアを開けると、美しい女性の歌声が聴こえた。ソウタはネコミミをぴんっと立て、歌に聴き入る。
部屋のロフトにおいてあるラジオから歌声が流れてくるのだ。澄んだ歌声は、ハルそれとよく似ている。だが歌声はハルのそれよりも大人びていて、洗礼された印象を受けた。
歌声の主は、ハルの母親だ。
ハルが、教えてくれた。
ハルの母親であるサクラ・コノハは、名の知れた歌手だった。
外の世界から、ケットシーである彼女は治療のために箱庭にやってきた。そして、外の世界と箱庭の交流を促す広告塔として活躍していたそうだ。
歌は、常若島に伝わる物語を歌っていた。
優しく、切ない歌声は、聴くものを哀しい心持ちにさせる。
物悲しい気持ちを抱きながら、ソウタは正面にある壁画を見つめていた。
壁画は島に伝わる物語をモチーフに、ソウタが描いたものだ。
漆喰塗りの壁には、羽を生やし飛び去っていく白い猫と、彼女を追う灰色の猫が描かれていた。
昔、この常若島には十三匹の猫たちが仲良く暮らしていた。十二番目に島にやって来た白猫と、十三番目に島にやって来た灰猫は恋人同士だった。
だが、流行り病で猫たちは死んでいく。恋人であった白猫も亡くなってしまい、灰猫は島にたった独り残されてしまうのだ。
旧文明時代、常若島で治療を受けていた子供たちをモデルにした物語だ。
主人公の灰猫はもちろん、ワクチンとウイルス開発に貢献した少年がモデルになっている。
少年は灰猫と呼ばれ、救世主として箱庭各地で崇拝されている対象でもある。
その信仰を広めるために物語はつくられた。箱庭の大人たちは信仰心を養うため、幼い頃から子供たちにこの物語をきかせてみせる。
壁画は恋人である白猫を喪った、灰猫の心境を描いたものだ。
ソウタは壁画に近づき、灰猫にふれる。朝陽を受けて、灰猫の蒼い眼が悲しげにゆれていた。灰猫と同じ蒼い眼を、ソウタは辛そうに伏せる。
義母のサツキは、何度も島の物語を聞かせてくれた。そのたびに、話を聴くソウタは心臓を悲しげに鳴らしたものだ。
物語を聴いていると、とても辛い気持ちになる。ソウタ自身が、灰猫の辛さを感じているように思えてしまうのだ。
自分が灰猫の『{チェンジリング}(取り換え子)』であるせいかもしれない。
チェンジリングとは、マブがクローン技術で生み出した子供たちのことだ。彼らは島で治療を受けていた十三人の子供たちの遺伝子情報をベースに生み出されている。不足する人口を補うために造り出された彼らは、その出生に因んで『マブの子』とも呼ばれている。
ラジオから聴こえてくる歌声が、物悲しい鎮魂歌に変わっていた。
ハルが言っていた。
葬儀のあと、母を想い歌っていたときにソウタと巡り会ったと。ソウタもその日、常若島に越してきたばかりだった。
会ったその日に、ハルはたくさん話をしてくれた。
母親の歌う姿に憧れていたこと。母親のようになりたいと思っていたら、ケットシーの能力を発現させていたこと。
母親のように鎮魂祭で歌を奏で、人々を慰められるような歌手になりたい。涙ぐんだ眼を輝かせながら、ハルは夢を語ってくれた。
話を聴いているうちに、ソウタは彼女に自分を重ねていた。
ハルが同じだと思ったから。
自分と同じ、母親を亡くした悲しみを抱えていると思ったから。けれど、歌により悲しみを乗り越えようとするハルを、遠くに感じた。
ハルの強さが羨ましい。
不意に、真っ赤になったネズミ捕りが脳裏を過ぎる。ネコミミを伏せると、鈴が悲しげに音をたてた。
「友達に、なれればいいな」
ソウタはぽつりと呟いた。
茶トラと鯖トラの二人組の姿が、脳裏を過る。
ハルは、桜の木の下からいつも二人を楽しげに眺めている。彼らと友達になりたいと言いたげに。
でも、あの二人は自分たちを受け入れてくれるだろうか。ハルは、あの二人にいじめられたりしないだろうか。
不安を覚えながらも、ソウタは壁画の灰猫から手を離す、壁画に背を向けると、口からあくびが出てきた。
ソウタは、部屋の中央にかかっているハンモックを見あげる。
ソウタは床を蹴り、ハンモックに跳び乗った。ハンモックが大きくゆれ、紐につかまる。ゆれが収まると、ソウタはぽふんとハンモックに身を横たえた。
ソウタは体を丸め、紅茶缶を胸元に抱き寄せる。
桜の香りが、鼻腔をくすぐる。
円卓公園の桜を思い出し、ソウタは眼を細めていた。
まだ桜は、蕾のままだ。その蕾が咲くことを、ハルはとても楽しみにしている。
ソウタは眼を瞑る。
ラジオから聞こえる歌声が子守唄を歌っていた。歌は、ソウタの心音に合わせて旋律を刻んでいるようだ。
満開になった円卓公園の桜は、どれほど綺麗なのだろう。
はらはらと、薄紅の花びらが舞う公園。その中で、ハルは笑いながら歌をうたってくれるに違いない。
輝く眼で、満開の桜を見つめながら――
「ハル……」
ハルの笑顔を思い描きながら、ソウタは眠りに落ちていく。
眠りから目覚める。
ベッドで丸くなっていたハルはネコミミをあげ、周囲の音を聴く。
ハルのネコミミには、たくさんの時計の音が響いていた。
ハルは顔をあげる。
ハルの視界に寝そべっている天蓋ベッドの支柱が映った。支柱には、いくつもの懐中時計が括りつけられている。支柱を照らす光に導かれ、ハルはカーテンに閉ざされた窓を見た。
窓の下には、たくさんの時計が散らばっている。鈍い陽光を受けて、時計は表面の硝子を輝かせていた。
時計はすべて、ハルが部屋に持ち込んだものだ。
時計の音は心音に似ている。ネジを巻いてやれば動き続け、その音でハルを安心させてくれるのだ。
部屋の隅に置かれたラジオから、子守唄が流れてきていた。
歌っているのは、義母であるサクラ・コノハだ。
この家に養子としてやって来たハルに、サクラは子守唄をよくうたってくれた。
そのときに亡くなった娘の話を、サクラは楽しそうに話すのだ。
話を聞く、ハルの気持ちなど考えもしないで。
ハルは彼女の子守唄を聴くたびに、自分が身代わりであることを思い知らされる。
心臓が不穏な音をたて、ハルは体を抱きしめた。優しい子守唄は、ハルのネコミミに残酷に響き渡る。
ウイルスに侵され、喉を患い、歌を失った義母。
サクラが、最後に残した音が忘れられない。
だんだんと弱っていく心臓の音。その音を聞いて以来、ハルは他人の心音に異常なほど敏感になった。
恐いのだ。
側にいる人の心臓がとまってしまうかもしれないと不安で、歌えなくなる。
不意にソウタのことを思いだす。彼の困ったような笑顔が脳裏を閃き、ハルは眼を見開いた。
ソウタはハルが歌えなくなると、困ったように苦笑する。そしてハルに、ごめんねと謝るのだ。
彼の笑顔を見ていると、安心できるのはどうしてだろう。
ソウタは忙しなく心音を鳴らしては、自分を困惑させる。その音にハルは不思議と安らぎを感じているのだ。
時計の音が、とまる。
驚いて、ハルはネコミミをたてていた。
顔をあげ、部屋を見回す。
部屋の時計が、いくつかとまってしまっている。ハルはネコミミをたらし、力なくベッドに顔を伏せた。
とまっていく、義母の心音を思い出してしまう。
時計が、また一つ、とまる。
びくりと、ハルはネコミミを震わせた。
嫌なことを考えてしまう。
もし、ソウタの心臓が時計のように止まってしまったら――
「お願い、とまらないで……」
不安が呟きになる。
体が震えてしまう。ハルはぎゅっと体を丸めて、その震えをとめようとした。