雪と、みぞれと、永訣と
「みぞれがふって、表は妙に明るいのだ」
声を頼りに、私は窓の外を見る。大学のサークル棟から仰ぐ空は、妙に明るかった。
雲に隠れ、蒼鉛色に塗りつぶされた空。
そこから、大きな雪が次から次へと降ってくる。
落ちてくる雪を見ていると、何だか自分が水底へと沈んでいくような、そんな不思議な感覚を覚えてしまう。
窓から視線を放して正面を見た。廊下が妙にしんとして、明るい。
廊下の右側に並んだ窓から、光が漏れているのだ。
「薄赤く、いっそう陰惨な雲からみぞれはびちょびちょ、降ってくる……」
廊下に、優しい男性の声が響いていた。同じ文芸サークルに所属する、星野先輩の声だ。先輩の声は、いつ聞いても安心する。
声が詠んでいるのは宮沢賢治の詩。永訣の朝だ。
最愛の妹、トシの死に際を描いた詩は賢治の代表作として名高い。その中で、トシは自分のために兄である賢治にみぞれが食べたいと奇妙な頼み事をする。賢治は、それは自分を想う妹の愛の形だと詩の中で詠っている。
歩きながら息を吐く。白い吐息が冷たい空気に消えていく。
「蒼鉛色の暗い雲から、みぞれはびちょびちょ沈んでくる」
朗読が続く。
沈む。自分が、沈んでいく。
窓外の雪を見て、錯覚する。
雪はマリンスノーで、ここは海底のようだと。賢治も、そんなことを思いながら、トシのために、みぞれを集めていたのだろうか。
トシを失う悲しみを、そんな風に表したのだろうか。
廊下を歩く。
「二切れの御影石材に、みぞれは寂しく溜まっている」
独りぼっちになってしまった賢治は、何を思い生きていたのだろう。
聞こえてくる詩の内容から、そんなことを思う。私も、先輩が声をかけてくれるまでは大学で独りきりだった。
文芸サークルの部室前でとまる。大きく息を吸って、戸を開いた。
「やあ、こんにちは吉江ちゃん」
優しい声が私を迎えてくれる。嬉しくて、顔に笑みが滲んでしまう。
文芸部には私と先輩しかいない。ここに来るのは私と先輩だけ。
私は急いで、声の方へと視線を向けた。
先輩は、書籍が雑然と積み上げられた部室の中央にいた。パイプ椅子に腰かけ、穏やかな瞳を私に向けてくる。
「何、読んでるんですか?」
「永訣の朝」
持っていた本を、私に見せてくれる。
宮沢賢治の詩集、「春と修羅」を。
あぁ、やっぱり読まれていた。私の宝物。
「それ、私のです」
「知ってる。だから読んでた」
先輩が微笑み、柔らかな声で答えてくれる。
優しい声に胸がざわめき、言葉を返すことができない。
サークルの勧誘会を独りさまよっていたとき、私に声をかけてくれたのが先輩だった。
――君、宮沢賢治に興味はある?
そう言って、先輩は私に「春と修羅」を渡してくれたのだ。
詩集を持っていると、先輩の柔らかな声が私を包み込む。
声は、いつでも私の耳に優しく賢治の詩を囁きかけてくれるのだ。
先輩の声が好き。
私を気遣って、側にいてくれる声が。
悩みを聴いて、私を慰めてくれる声が。
気づくと、私は先輩の側にいる。彼の元を、離れられなくなっている。
「お茶でも、飲む?」
先輩の声が私を呼ぶ。先輩は苦笑しながら私を見つめていた。
頬が熱くなる。私はとっさに先輩から視線を離していた。
「吉江ちゃん?」
先輩に呼ばれて、そっと私は顔をあげる。
先輩は楽しげに笑いながら、私に手を振ってくれた。とっさに私は彼から顔を背ける。
「参ったなぁ……」
「からかわないで、下さいよ」
「ごめん」
先輩は笑う。つられて私も、苦笑していた。
先輩は立ち上がると、石油ストーブにかけられているやかんを取り上げた。パイプ椅子の脇にある机には急須が置かれている。それに、お湯を注ぐ。
ふんわりと、急須の注ぎ口から湯気が立ち上る。
先輩の親指が流れるように本の表紙をなぞった。私はその指から、視線を逸らすことができなかった。
「気に入ってくれたみたいだね、宮沢賢治」
眼を細め、先輩は言葉を紡いだ。
話したい。でも、喉が震えて声がだせない。
困ったように先輩は苦笑してみせた。先輩はやかんをストーブに戻す。先輩は急須を手に持ち、カップへとお茶を注いでいく。
「ねぇ、吉江ちゃん。永訣の朝を読んでいて思ったのだけれど、賢治は妹に恋をしていたのかな?」
先輩は詩集を机に置いた。お茶の入った2つのカップを手にとり、その片方を私に差し出してくれる。彼の視線は、遠く窓外に向けられている。雪の沈む、蒼鉛色の空へと。
トシのことを思っているのだろうか。先輩は憂いたように瞳を細める。
その瞳に魅入ってしまう。先輩に思われるトシのことが、羨ましい。
「その、異性間のそれではなくて、もっと純粋な、ただ独りの大切な人として、トシを想っていたというか……」
彼は言葉を切り、こちらを向いた。
先輩がカップの縁に口をつける。お茶を飲むその仕草にすら、私の瞳は釘付けになってしまう。
「どう、思う?」
言葉を紡ぐ唇に、瞳が言ってしまう。
なんて柔らかそうな唇だろう。
そう思わずにはいられない。
淡いさくらの色をしていて、艶やかで。
そこから発せられる声と同じ、ぬくもりを感じられる。
唇を見つめていると、先輩の声が無性に聴きたくなってしまう。
「詩が、聴きたいです……」
「えっ?」
先輩は怪訝そうな顔をする。
「いや、その、賢治が何を思っていたのか、朗読を聴けば少しは分かると思って」
私は慌てて、取り繕う。
先輩が笑った。彼は座っていたパイプ椅子を引き、私に勧める。
「座って」
促されるままに、私は椅子に座る。彼は脇にある机に腰かけ、「春と修羅」を手にとった。
「みぞれがふって、表は妙に明るいのだ」
私のために、ふたたび朗読が繰り返される。
ふと、窓外を見る。沈んでいた雪はみぞれへと変わっていた。
彼の優しい声に、雪まで温められたようだ。みぞれになった雪は窓にあたり、ぴしゃりと音を放つ。
ぴしゃり。ぴしゃり。
静寂がやぶられる。
先輩が顔をあげて、外を見た。
「永訣の朝だ」
先輩は、ほうっと声をもらす。
永訣。永遠の別れ。
いつか、そんな日が私と先輩にもやってくるのだろうか。
大学を卒業した先輩は社会に出て、素敵な女性に出会うのだろう。
その人を先輩は愛するに違いない。
私のことなんて、きっと忘れてしまうはずだ。
私に朗読を聴かせてくれているこの瞬間すら、彼は忘れていくのだ。
そして、永訣は訪れる。
賢治とトシのように刹那に別れるのではなく、長い時が私たちを引き裂いていく。
私は願っていた。
みぞれよ、みぞれ。どうかずっと、やまないで。
この時が、ずっと続くように。
永訣の別れが、私と彼に訪れないように