Eight Cats 墓所、ケルト十字
温かなぬくもりに、ソウタは包まれていた。ソウタの目の前に大きな柱時計がある。その柱時計の振り子が視界の先にあることで、これが夢だと気づくことができた。
目線が、今の自分よりもずいぶんと低い。それに柱時計の硝子戸に自分と、いないはずの人物が映りこんでいた。
パジャマ姿の女性が、背後からソウタを優しく抱きしめてくれている。女性の頭部に生えたブチ柄のネコミミが、気持ちよさげにたれさがっていた。
女性の背後には、真っ白な部屋が広がっている。まるで、マブの治療院にある病室のようだ。
違う、ここは病室だ。
「相変わらず、ソウタはあったかいなぁ……」
優しい声が、ネコミミに響く。背後を振り返ると、女性が笑っていた。その微笑みを見て、目頭が熱くなってしまう。
「義母さん……」
思わずソウタは、サツキに語りかけていた。
「どうした。泣きそうな顔して? なんか、嫌なことでもあったのか?」
サツキは、優しくソウタのネコミミをなでてくれる。その感触が心地よくて、ソウタはうっとりとネコミミを伏せていた。
夢だと分かっていても、サツキが目の前にいることが嬉しい。たまらなくなって、ソウタはサツキの手を振りほどいていた。
驚くサツキに振り向き、彼女に力いっぱい抱きついてみせる。
「義母さんも、凄くあったかい……」
あたたかなぬくもりが、体いっぱいに広がる。懐かしいその感触に、ソウタは静かに眼を閉じていた。
「ソウタ……」
サツキの手が優しく背中に回されるのが分かる。そっとネコミミをなでられ、ソウタは眼を開けていた。
「元気が一番。寂しくしてる人には、こうやってギュッてしてやるといんだぞ……。ソウタは、何がそんなに寂しんだ?」
「その……。あのね、義母さん、俺……」
怯える眼を自分に向け、走り去っていたハルの姿を思い出す。倒れながらも、自分に弱々しく微笑みかけてきたミミコの姿が脳裏を過る。
自分に起こった出来事がいっぺんに頭の中を駆け巡って、ソウタは言葉を発することが出来なかった。
「言えないか……。まぁ、悩んでる人間はだいたいそうだよな」
サツキが困ったようにネコミミを折り曲げてみせる。ソウタは、しゅんとネコミミをたらしていた。
サツキが思いっきりソウタを抱き寄せる。
「義母さんっ」
驚いて、ソウタは声をあげていた。そんなソウタにサツキは優しく語りかけた。
「それでいいんだよ、ソウタ。たくさん悩んで、いっぱい考えて、義母さんもそうやって生きてきた。でもね、ソウタ。義母さんはこう思うようになったんだ……」
あぁ、あの言葉だ。サツキは、あの言葉を言おうとしている。
死の直前に、ソウタに残してくれた言葉を。
この夢は、サツキと最後に会ったときの夢なのだ。
「私ね、毎日を後悔しないで生きることにしたんだ」
凛としたサツキの声がする。ソウタは、彼女の顔をみあげていた。サツキは優しく微笑み、言葉を続ける。
「だから、ソウタも――」
夢から目覚めて初めて聞こえたのは、うるさい海鳴りだった。額に乗せていた腕を退けると、横たわっているハンモックがかすかにゆれる。
そのゆれを気にすることなく、ソウタは体を起こしていた。
うぁん、うぁんと部屋の中で海鳴りがする。その海鳴りに邪魔されて、サツキの言葉を聴くことができなかった。
でも、彼女が何を言いたかったのかソウタには分かっている。
「無理だよ、義母さん……」
自嘲が、顔に浮かんでしまう。
そっとソウタは、海鳴りの聞こえる窓へと顔を向けていた。どんよりと曇った空を映し込み、海が漣を生み出している。
灰色に濁った海原の向こうには、巨大な壁がそびえ立っていた。
Eight Cats 墓所、ケルト十字
ハルが、公園にやってこなくなった。
彼女の家も訪ねた。
だが、家庭教師だという女性にそっとしておいて欲しいと諭され、会うことさえできない。
倒れたミミコはマブの施設に収容されている。
面会はできる。小康状態は保っているが、いつ容態が崩れてもおかしくないそうだ。
側にいながら、彼女の具合を見抜けなかった自分が情けなかった。
「俺って頼りないね、義母さん」
ソウタは目の前にあるケルト十字の墓標に話しかける。
墓標はサツキの墓だ。
黄昏の光が墓標を照らし、長い影がネコミミを伏せるソウタを覆っていた。
――私って、本当に頼りないな。
そう、口癖のように呟いていたサツキを思い出す。
サツキは、自分に死期が近いことを明かしてくれなかった。ミミコは具合が悪くなっても、いつもそれを教えてくれない。
サツキもミミコも、ソウタに決して頼ろうとはしない。
二人に言わせてみれば、ソウタは守るべき息子であり義弟でしかないのだ。
苦笑が顔に滲んでしまう。
守ってもらえることは嬉しい。でも自分は、そんな彼女たちを守ることさえ許されない。
ごうっと海鳴りがソウタのネコミミに轟いた。
音のする方向へと顔を向ける。
荒れた斜面にはケルト十字の墓標が無数に突き刺さっていた。斜面の中央には、円形に並べられた十二基の大きな墓標がある。
十二基の墓標は、十三人の子供たちの墓だ。
斜面の先には、暗い海原が広がる。海原の終わりには巨大な壁が立ちふさがっていた。
海鳴りは、壁から聴こえてくる。風が壁にぶつかり、音を発しているのだ。
壁は逆光を受けて、黒々とした威容を見せつけていた。
ここは島の東側に広がる墓所だ。
墓所は旧文明が滅びる前からあり、ウイルスによって亡くなった人々が葬られている。
だが、墓所に眠る遺体はない。
遺体は常若島の地下にあるというドゥンの泉に水葬されることが習わしとなっている。ドゥンの泉に入ることが許されるのは、マブの一部の人間だけだ。
サツキの遺体も例外ではない。いくら墓標に問いかけたところで、そこに彼女は眠っていないのだ。
死んでしまえば、みんないなくなる。
強い海風が吹き、墓標を揺らす。墓標は、嘆くように低い音を発する。
まるで、自分のようだとソウタは思った。
サツキを忘れられず、ソウタは嘆いてばかりいる。
風に嬲られるネコミミを抑え、ソウタは顔をあげる。
轟音に混じって、泣声が聴こえた。ソウタは、島の中央である背後へと顔を向ける。
眼前に広がる急な斜面の頂きには、円卓公園がある。
円卓公園から、悲しい歌声が流れてきていた。
小さな、ハルの歌声が。ネコミミを反らし、ソウタは頂きにある公園を見あげる。
あそこにハルがいる。彼女のことを思い、ソウタの心臓が切ない音をたてた。
その音に呼応するように、歌声が切なさを帯びる。
ソウタは、斜面を駆け上り公園へと向かっていた。
黄昏に染まる公園には誰もいない。
灰猫の桜は長い影を作り、公園の中央に立ちつくしているだけだ。
公園にやって来たソウタは灰猫の桜に駆け寄った。
公園にたどり着くまで、歌声は聴こえていた。ハルは遠くに行っていないはずだ。
桜を見上げる。
桜の梢がかすかにゆれた。それに気がつき、ソウタは眼を眇める。
梢の隙間から白いものがみえた。眼を凝らしてみると、それが白いネコミミであることがわかる。
ソウタは地面を蹴り、桜に跳び乗っていた。二股に別れた幹に着地すると、衝撃で枝が軽くゆれる。
「ソウタくん……」
震える声が聞こえる。
顔をあげると、眼を震わせたハルがこちらを見つめていた。
「ハル……」
彼女を安心させるため、ソウタは微笑んでみせる。ハルはびくりと肩を震わせ、首を左右に振った。ハルの思わぬ行動に、ソウタは眼を見開く。
「ハル……?」
ハルに近づく。
「いや……」
小さく声をあげて、ハルは後退りする。ソウタは彼女に手を伸ばしていた。
「ハル」
「やだっ! 来ないで!」
ハルに手を弾かれる。弾かれた手に鈍い痛みが走った。
唖然とソウタはハルを見つめる。
ハルは苦しげに眼を歪めた。彼女はまた、後ろへと下がる。その瞬間、足を滑らせたハルの体が大きく傾いだ。
「きゃあっ」
「ハルっ!」
ソウタはとっさに幹を蹴り、幹から落ちていくハルを追う。
落ちていくハルの体に手を伸ばし、抱き寄せる。背中を地面に向け、ソウタは彼女を強く抱き寄せた。ソウタの体は背中から地面にぶつかる。鋭い痛みが背骨を駆け巡り、ソウタは喘いだ。
「ソウタくん!」
ハルの叫び声が聞こえる。彼女が顔を覗き込んできた。眼に涙を溜めてハルはソウタを見つめている。
「良かった、ハル……」
「どうして、私なんか……」
彼女の涙がソウタの頬を濡らしていく。そっと、ソウタはハルの頬に手の甲を添えていた。
「大丈夫……。俺、体だけは丈夫だし……」
声を発するだけで体に鈍痛が走る。それでもソウタは力を振り絞り、上半身を起こした。そっと腕の中のハルを抱き寄せる。
「ソウタ、くん」
ハルが上擦った声をあげる。ソウタは優しく眼を細め、彼女の背中を撫でていた。
ハルの柔らかな感触が気持ち良い。そのぬくもりがあるだけで、痛みも忘れられる。
「ごめん……放して」
だが、発せられたハルの言葉にソウタは眼を見開いた。
「えっ、ハル……」
「ごめん、ソウタくん……」
腕の力が抜ける。ハルは起き上がり、ソウタの体から離れていく。ハルはソウタを一瞥することなく、歩き出していた。
「まってっ!」
軋む体を無理やり動かし、ソウタは立ちあがる。
「どうして。どうしてだよ、ハル!」
痛みに声が震えてしまう。それでも構わず、ソウタはハルに叫んでいた。
「私は逃げたんだよ…… ミミコさんだって助けずに……あの場から……」
ゆっくりとハルが振り向く。
「逃げちゃって、ごめんさい……」
涙で濡れる眼を細め、彼女は微笑んでいた。苦しそうに眼をゆらしながら、彼女はソウタを見つめ続ける。
「どうして……」
「ミミコさんが倒れたとき、聞いちゃったの……。心臓が弱っていく音……」
顔を俯かせ、彼女は震える声で続ける。
「だんだん、心臓の音が小さくなって、最後には聴こえなくなるの……。お義母さんがそうだった……」
震える声は次第に、涙声へと変わっていく。それは、初めて聴くハルの弱音だった。
「ソウタくんといても不安なの……。いつか、あなたの音がお義母さんみたいに聴こえなくなっちゃうんじゃないかって……。だから……もう、嫌なの……。こんなの嫌……」
ハルが自分の思いを吐き出していく。今まで自分たちがやってきたことを否定するように。
やめてくれとソウタは心の中で叫んでいた。それでも喉が渇いて、声がでてこない。
「ソウタ君は恐くないの……? 私たちケットシーになったせいで、いつ死んじゃうかわからないんだよ……。私、ケットシーになんてなりたくなかった。こんな能力、いらない。歌なんて嫌、もう歌いたくない……」
彼女の夢であった歌を、彼女自身が嫌いになろうとしている。
ハルの発言を聴くたびに、ネコミミが震えてしまう。これ以上、ハルの言葉を聴きたくない。
その一心でソウタはハルに近づいていた。
乾いた音がハルの片頬に響いた。ソウタがハルの頬を叩いたのだ。
大きく眼を見開いて、ハルはソウタを見つめた。叩かれた頬に手を充て、彼女はじっとソウタを見つる。
「ソウタくん……」
ハルに呼ばれ、ソウタは我に返った。彼女が眼に涙を浮かべて、自分を見つめている。
ソウタは思わず後退っていた。動揺にネコミミが震えてしまう。
ハルはずっと耐えていたのだ。母親を亡くした悲しみに。
ケットシーになり、いつ死ぬかわからない恐怖とも彼女は戦い続けていた。
それなのに――
「ハルは俺とは違うって、思ってた……」
込み上げてくるものを抑えながら、ソウタは微笑んでいた。
――私と同じなの?
ハルが、初めてくれた言葉を思い出す。
ソウタは同じだと答えた。けれど、自分とは違うものをハルは持っていた。
ハルの歌声に、ソウタは前に進もうとする強い意思を感じとっていたのだ。
歌うハルは涙に耐え、微笑んでいた。彼女の強さが羨ましくて、憧れていた。
「ごめん、気づかなくて……」
けれど、そう思っていたのは自分だけ。
心音がトラウマになるほど、ハルは大好きだった母親が亡くなったことに傷ついていた。
ケットシーであることに苦悩し、歌うことに苦しみも感じていた。
それなのに自分は、ハルの弱さに目を向けることさえしなかった。
「ソウタ、くん?」
ハルが不安げに眼を向けてくる。その眼を見つめることができない。
ソウタはハルに背を向け、駆け出していた。
誰もいない店内に、ドアベルの音が響く。
ソウタは静かに店内へと足を踏み入れた。
カウンターを横切る。卓上に空になった硝子のポットを見つけ、歩みをとめた。
ハルのために桜のフレーバーティーを入れたポットだ。
結局、そのお茶を飲むことはなかったけれど。
ポット越しに見たハルの姿を思い出す。
ジャンピングする茶葉がまるで桜吹雪のようにポットの中で舞っていた。
ポットの中から見るハルは、桜吹雪の中で歌っているようだった。
階段をあがり、部屋のドアを開ける。
正面にある壁画が視界に映り込んだ。黄昏の光を受けて、壁画が浮き上がって見える。
壁画に近づき、ソウタは空を飛ぶ白猫に触れた。その後を、灰猫が追いかけている。
あぁ、これのせいかと気がつく。
雨の中、ハルを追っていたときに覚えた既視感。壁画の灰猫と自分を、無意識のうちに重ねていたのだ。
今はハルの存在を遠くに感じる。灰猫のもとから去ってしまった、白猫のように。
風が、部屋の右側にある窓をゆらす。
ネコミミについた鈴を鳴らし、ソウタは窓へと視線をやった。
「牢獄みたいだ」
呟きが漏れる。
窓の外には灰色に淀む海原と、海を隔てる壁があった。