
満月ビー玉
満月の夜にビー玉を見つめると、そこに亡くなった愛しい人がいる。
そんな都市伝説が俺の小学校時代、密やかに流れていた。
「誰もいないぞ……」
白い満月にビー玉を翳しながら、俺は苦笑する。正面に顔をやると、凪いだ海を月光が照らしていた。
よく妻と夜の散歩にやって来た浜辺。今日はどうしても彼女に相談したいことがあってここにやって来た。
だが、彼女には会えそうもない。
「それも、そうか……」
苦笑しながら、俺はビー玉をズボンのポケットに入れていた。
くだらない都市伝説に縋ったのにはそれなりに理由がある。それほどまでに、俺の悩みは深刻だった。
――パパって、どうしてママを好きになったの?
年頃の1人娘の口からでた、この言葉のせいだ。
娘の問いかけに俺は答えることができなかった。
どうしてそんなことを訊ねたのか聞くと、なんとクラスメイトに告白されたらしい。その男子の名前をどうして聞き出せなかったのかが悔やまれる。
大切な娘に、変な虫でもついたらたまったもんじゃない。
たまったもんじゃないんだが――
「なぁ恋って、どういうものだったけ?」
娘に訊ねられたもう1つの問いかけを思い出し、俺は呟く。ポケットからビー玉を取り出して月に翳すと、蒼い月光が周囲に拡散した。
その光が、白い砂浜にもあたる。
その砂浜に1人の少女が立っていた。長い髪を月光に艶めかせ、彼女は俺へと振り向いてみせる。
彼女が微笑む。その愛らしい微笑みに見覚えがあった。
「君は――」
俺が口を開きかけたとたん、彼女は砂浜を駆けだしていた。そんな彼女の周囲で跳びはねるものがある。
ビー玉だ。
跳びはねる無数のビー玉が月光を受けて、キラキラと輝いている。彼女が駆けるたびに、ビー玉は彼女の周囲を跳びまわる。
俺はとっさに彼女を追いかけていた。
浜辺に響くのは、少女の駆ける足音と、笑い声。それから、無数に跳ねるビー玉の音。
彼女の笑い声を聞きながら、俺は遠い過去を思い出していた。
満月の夜、ビー玉を掲げていた彼女に俺は声をかけたんだ。逃げ出した彼女に追いつき、俺は彼女の肩を掴んだ。
振り返った彼女は泣いていて――
俺は頭を振り、回想をやめた。
俺は彼女に追いつき、そっと彼女の肩を掴む。彼女が振り返る。俺は思わず息を呑んでいた。
――あのときのように彼女が泣いていたらどうしよう。
そんな悩みが俺の脳裏を掠めてしまう。
彼女の眼が俺を捉える。細められた眼は、ビー玉みたく美しい輝きを放っていた。
彼女が笑っている。その笑みを見て、俺は思わず安堵に微笑んでいた。
「あの子も、恋をするようになったのね……」
嬉しそうに彼女が言う。
その言葉を言い終わった瞬間、彼女は消えていた。
「パパっ」
声をかけられ俺は我に返る。
振り返ると、彼女とよく似た少女が眼の前にいた。
似ているはずだ。少女は彼女の、亡くなった妻と俺の娘なのだから。
「どうした、真菜? 家にいろってあれほど……」
「パパっ!」
真菜が俺に抱きついてくる。驚く俺を、真菜は見あげてきた。
「ごめん。ママがいなくなったときのこと、思い出しちゃって……」
真菜の言葉に、俺は胸を痛めていた。
真菜が小さなころ、出かけた彼女は車に轢かれ帰らぬ人となったのだ。
潤んだ真菜の眼が、月光に煌めいている。
それは、遠い昔に見た妻の眼とそっくりだった。
小学生のころ母親を亡くした彼女は、この浜辺でビー玉をよく見つめていた。
満月の夜になると、いつも――
そのことに気がついたのは、いつ頃だっただろう。
ビー玉を見つめる彼女に話しかけると、彼女は逃げだした。けれど、俺は彼女を追いかけて、彼女は俺に捕まって――
話を聞くうちに仲良くなって、成長した俺たちは結婚したんだ。
そして今夜、彼女に出会うために俺はビー玉を覗いていた。
娘の、真菜の成長を彼女に相談したくて――
「なぁ真菜、話してくれた男の子とは上手くいってるのか?」
俺の問いかけに真菜は眼を見開く。恥ずかしげに真菜は顔を逸らし、小さく答えてくれた。
「分かんないよ……。恋なんてしたことないもん……」
「じゃあ、母さんに相談してみるか?」
真菜が驚いた様子で俺に顔を向けてくる。俺は優しく微笑み、ビー玉を満月に翳してみせた。