名無し少女と、百目女
祭の終わり
こんこんこん。
こんこんこん。
舞台を巡る狐が鳴く。
稲の穂を想わせる尻尾を狐たちが振る。そのたびに、水田に植えられた稲がぐんぐん伸びていく。
その様子を、ナナシは妖たちと踊りながら見つめていた。
一目連が起こした騒動も収まり、奉納の舞は終盤へと近づこうとしている。そのときの様子を思い出して、ナナシはくすっと笑っていた。
空を仰ぐ。
もう、雨は降っていない。代わりに、美しい一つ目の龍が夜空を優美に舞っていた。龍は月光に照らされ、蒼い光を地上に投げかけてくれる。
「どぉした? 何おかしいんだぁ?」
笑うナナシに百目が小さく声をかけてくる。
「何でもないです」
人差し指を唇に当て、ナナシは百目に笑いかけてみせた。
――少しはガキの気持ちぃも考えろぉ! エロじぃじぃ!!
そう叫んで、一目連の頭をぽかぽか殴りつけた百目の姿を思い出す。百目の攻撃に狼狽えた一目連は慌てて地上に降りた。
そこで彼を待っていたのは、五柱の伏見様たちの説教と、狐たちが放ったお仕置きの狐火と、妖たちの冷ややかな視線であった。
しゅんと小さくなって、伏見さまたちの説教を聴いていた一目連の姿を思い出す。立派な龍が小さくなっている様子は、何とも滑稽だった。
「帰りたいかぁ……。母ちゃんところ……」
百目に声をかけられ、ナナシは引き戻される。
「帰りたいよなぁ……。眼の代わりに、私に母ちゃんの眼治してくれって頼んだぐらいだからなぁ」
「百目さん、その……」
ナナシの顔をじぃっと覗き込み、百目は言葉を重ねた。悲しげに一つ目を曇らせる百目から、ナナシは顔を逸らす。
「どぉしたぁ? 私が生まれる前に会ってたこと黙ってたぁの、そんなに不満かぁ?」
ぐるりと百目が一つ目を動かして、尋ねてくる。
「だって――」
「分かんなかったんだよぉ。しゃあないじゃぁん……。私はぁ、一目連さまみたくぅ、鼻よくないんだぁ。ましてや生まれる前のにんげんなんてぇ、区別つかないよぉ」
「怒ってなんか、ないです」
「じゃぁ、どうしてぇ、顔逸らすんだよぉ!」
「もうすぐ、お別れしなくちゃだから……」
「えぇ!?」
「私、ちゃんと、お母さんと向き合いたいんです……。でも、それって、――」
「だよなぁ、寂しぃ!!」
とつぜん、百目がナナシに抱きついてきた。ぶわぁっと一つ目から涙を流し、百目はナナシを抱き寄せる。
「もうちょぃ、一緒にいてもいいよなぁ……。でもぉ、出来ないんだよなぁ……。寂しいなぁ……」
百目は、すりすりと頬ずりをしてくる。それが妙にくすぐったくて、ナナシは笑っていた。
「百目さん、ずるいよ……」
不意に悲しさを覚えて、ナナシは呟いていた。だって、会えなくなって寂しくなるのは、百目だけではないのだ。
私だって百目さんと離れたくない。
でも、それは現し世に生きる私には叶わない夢なんだ。
「あぁ、でもぉ。よおぉく考えたら、ずっと一緒だぁ……。悲しんでぇ、損した」
「えっ?」
あっけらかんとした百目の言葉に、ナナシは彼女を見つめていた。百目はにっと一つ目に笑みを浮かべる。
「だって、姿が見えなくなるだけでぇ、私はどこにでもいるんだぁ。だからぁ、いつでも会えるんだぁ。心で繋がってればぁ、カミさまとはいつでも会えるんだよぉ。ほらぁ、いつもあのお方には、会ってるだろぉ」
ぽんっとナナシの肩を抱いて、百目は空を指差していた。
夜闇に覆われていた空が、白み始めている。空のかすかな明かりは、海に浮かぶ無数の船を優しく照らし出していた。
空が明るくなるたびに、船から矢のように飛んでくるものがある。
それは、無数の火の玉だった。帯びを引きながら、地上に降り注ぐ火の玉は、成長していく稲へと吸い込まれていく。
「ほぉら、あのお方の導きを受けて、常世から還ってきた豊穣のカミさまたちが稲に宿り始めてらぁ。今年はぁ、ちゃんと豊作になるぞぉ!!」
百目が声を弾ませる。
それと同時に、光が世界に満ちた。
海の水平線にすっと光の線が現れ、それは大きな円へと成長していく。紺青だった空は紫に転じ、薄紫色になり、にわかに白を帯びて、桜色へと変わっていく。
その空の絵巻物を背景に、光を帯びた一柱のカミが、海に立っていた。
白い光で、女体を形作りながら、高天ヶ原の主は地上を眩しく照らしていく。
「眩しい……」
眼を細め、ナナシはじっとその女神を見つめていた。
青く澄み渡った空を背に、女神は光り輝く。その輝きに包まれ、雨露に濡れた立派な稲穂が大地を覆い尽くしている。
うぉおーん。
うぉおーん。
うぉおーん。
狐たちの遠吠えが聞こえる。女神は輝きを増し、光の中に黄金色の田園風景が飲み込まれていく。
「おぅ、思いついたぁ! お伊勢さまからのぉ! 贈り物だぁ。たぶんっ!」
とつぜん、百目が大声をあげた。ナナシはびっくりして、彼女を見つめる。海上で輝く女神を見つめながら、百目は続けた。
「お前の名前ぇ、思いついたぁ! いつまでぉ、ガキのままじゃぁ、不便だからなぁ。それにぃ、一目連さまがぁ、贈り物をくれるってよぉ!」
ぱぁっと一つ目を輝かせ、百目はナナシを見つめる。百目の一つ目は、どことなく悲しげに見えた。
「一目連さまがぁ、お前に優しさを返すってさぁ。お前はぁ、優しくするんじゃなくてぇ、優しくされるべきだってさぁ」
「優しさ……」
ナナシの頭を撫でながら、百目は空を仰いだ。青く輝く空の向こうへと、龍が飛んでいく。
白く輝く女神に溶け込み、その姿はやがて見えなくなった。