​名無し少女と、百目女

終章 菫色の眼

 気がつくと、黄金色の田園の中にナナシは立っていた。あたりを見回しても誰もいない。ただ、菫色の夜空に輝く月だけが、ナナシを優しく照らすばかりだ。

「あれ……百目さん……? 百目さんっ!」

 百目がいないことに不安を覚え、ナナシは叫んでいた。

「百目さん!!」

 叫んでも応えてくれる声はない。ただ、涼やかな秋風がナナシの頬を撫でて、通り過ぎていくばかりだ。

 どうしようもなくなって、ナナシは田んぼを見つめる。稲穂は、狐の尻尾のように風にゆれていた。

「どこにも……いないの?」

 ゆれる稲穂を見て、ナナシの眼が熱を帯びる。じぃんと沸き上がってくる涙をこらえて、ナナシはもう一度叫んでいた。

「百目さーんっ」

「どうしたの? こんな夜更けに家を抜け出したりしてっ!」

 そんなナナシを叱る人がいた。びっくりして、ナナシは後方を見つめる。

 一人の女性が、菫色の眼を怒らせナナシを睨みつけていた。彼女の長い黒髪を、秋風がさらさらと弄ぶ。

 自分にどこか似た面差しの女性を見て、ナナシは声を発していた。

「お母さん……? お母さん、なの?」

「当たり前でしょう。何を言ってるの、菫?」

「菫?」

 女性の言葉に、ナナシは小首を傾げてみせる。女性ははぁっと溜息をついて、ナナシに近づいた。膝を曲げて、彼女はナナシの顔を覗き込んでみせる。

「あなたの眼が素敵な菫色だって、大切な人がつけてくれた名前でしょう。どうして忘れちゃうの?」

「大切な……人?」

「そ、百目様があなたにつけてくれた名前」

「百目さんが……」

 ――お前の名前ぇ、思いついたぁ!

 別れ際に聞いた、百目の言葉を思い出す。じぃんと目頭が熱くなるのを感じながら、ナナシは女性を見つめていた。

 ふっと女性は微笑み、自分の腹部に手を充ててみせる。

「でも、あなたの眼の色は菫色じゃないの。それは、私の病気を治すために、百目様にあげちゃったから。でも、お腹の中にいるあなたに、百目様は新しい眼をくれたのよ。だからあなたをうんと大切にしなくちゃいけないって、夢で百目様は教えてくれたの……。

神様って言うよりかは、ひょうきんなお姉さんって感じの、一つ目の美人だったけどね。ほら、まだ菫には教えてなかったね。神社の本堂の裏に、百目様を祀った小さな祠があるのよ。百目様は眼の神様でね。大切なものと引き換えに、眼の病を治してくれる神様なのよ」

 ナナシの母親は、暗がりに浮かび上がる山の頂を指差してみた。あそこにあるのは、母親がナナシを捨てていった神社だ。

 とっさに、ナナシは山の頂きに視線を巡らせていた。

 

 ぼぉん

 

 爆音があたりに響いて、周囲がとつぜん明るくなる。ナナシの眼の前で、闇に沈んでいた田園が無数の狐火で満たされた。

 

 こんこん。

 こんこん。

 

 遠方から、狐の鳴き声が聞こえてくる。

 その声を合図に、狐火は神社のある山をゆっくりと登っていく。

「まぁ、狐の嫁入りじゃない……」

 母親が感嘆と言葉を漏らす。そっとナナシは首を振り、母親に言葉を返していた。

「違うよ。狐たちは、百目さんに、会いにいくんだ」

「百目様に?」

「そう、夜の市場で売る眼を貰いに行くの」

 涙をこらえて、ナナシは母親に笑ってみせた。

       

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