​雪の中のアドニス

雪の中のアドニス

 回想がとまる。冬美は瞼を開いた。
 雪の地面に横たえた体はすっかり冷たくなっていた。寒さのせいで体が痙攣している。指先を動かそうとしても、それすら叶わない。
 固定された視界は、雪の地面を映し出すばかりだ。
 寒さからくる体の不自由さ。ハルもこんな気持ちを味わっていたのだろうか。
 指1本満足に動かせず、見たいものさえ自由に見られない。
「こんなに…… 辛かったんだね」
 目頭がじんと熱を持つ。凍えた喉から声を発し、冬美は彼に謝っていた。
 彼のこんな苦労にさえ自分は気づかなかった。その無神経さがハルを追いつめていたのだ。
 冬美がハルの病室を逃げ出してまもなくのことだ。ハルは1枚の絵を完成させ心不全で亡くなった。
 独りきりで逝ってしまった彼はどれほど心細かっただろう。そんな彼に冬美は会いにいこうとさえしなかった。冬美がハルを殺したのだ。
 無神経さから彼を追いつめ、彼を独りで逝かせてしまった。
「だから、追いかけていってもいいよね、ハル……」
 彼に語りかける。涙が冷え切った頬を流れた。
 ここに横たわっていれば、きっと自分は死ぬことができる。死んでハルの側に逝くことができるのだ。
 ハルはきっと、冬美を許してはくれない。
 けれど、彼のいない世界で生きていくことに何の意味があるのだろう。
 ハルのいない世界は冬美にとって、閉ざされた冬のように暗く悲しいものでしかないのだ。アドニスを喪ったアフロディーテのように。
 そっと冬美は瞼を閉じる。
 耳を澄ませると、自分の心音が聴こえた。動かなくなった体に雪が降り積もっていく。
 静かだ。たった独りで、冬美はハルのもとへといく。
 誰にも、看取られず、静かに。
「冬美さんっ!」
 誰かが、叫んだ。
 温かな手が体に触れる。その手は、激しく冬美の体をゆすり始めた。
「何、してるんですか、冬美さん! みんな、心配してあなたのことを探してるんですよ! こんなところにいたら」
「寿恵さん……?」
 微睡んでいた意識がはっきりとする。
 冬美は弱々しく瞼を開いた。ぼんやりとした視界に、寿恵の顔が映りこむ。
 ハルの葬儀が終わったあと、自分は家を抜け出しここまでやって来たのだ。きっと家族は自分のことを心配しているだろう。目の前にいる寿恵だって。
「寿恵さんっ」
 冬美は上半身を起こしていた。
 顔を覗き込んでいた寿恵が驚いたように体を反らす。地面に座り込んでいた彼女は、唖然と飛び起きた冬美を見つめた。
 さぁっと血の気が体から引いていくのがわかった。
 誰にも悟られずハルのもとへと逝きたかったのに、それすらも、もう叶わない。
「ハル……」
 ほろほろと冬美の頬を涙が伝っていく。両手で顔を覆い、冬美は嗚咽に肩を震わせた。
「冬美さん」
 優しい声が耳元でした。
 温かな感触が体いっぱいに広がって、冬美は顔を覆っていた両手を退かす。
 寿恵が自分を抱きしめていた。細い腕を震わせながら。
 離すまいとするかのように、彼女は冬美の体を力いっぱい抱き寄せてくる。
「寿恵、さん……?」
「年寄りの戯言だと思っていいわ。だけど聴いて……。ハルはあなたのせいで死んだんじゃない。あなたはあの子にとって希望だったの。生きる意味そのものだったのよ」
「うそ……」
 寿恵の言葉に冬美は眼を見開いていた。
 ハルは自分のせいで追い詰められていたのだ。無神経に彼を励まし、動き回れる体で彼のもとにやってきていた自分のせいで。
「あの子も弱かったのよ。あなたに背負わせたくなかったの。自分の運命を。けど、あの子はあなたを想い続けていた。ずっと、ずっと。だから、ね」
 寿恵の声は上擦っていた。彼女は冬美の体を離す。冬美は寿恵の顔を見つめていた。
 潤んだ眼を綻ばせ彼女は微笑んでくれる。冬美を安心させるように。
「あの子が描いた最後の絵、見てくれるかしら?」
 寿恵は脇に落ちていた小さな額縁に手を伸ばす。降り積もった雪を手で拭い、彼女は胸元に額縁を抱き寄せた。
 寿恵は額縁を眺め、優しく微笑む。間違いない、あの額縁の中にハルが最後に描いた絵が飾られているのだ。倒れていた冬美を見て、寿恵は額縁を放り投げてしまったのだろう。
 死のうとしていた冬美を助けるために。
「ごめん、なさい……」
 震えた声が喉から出てきてしまう。罪悪感で押しつぶされそうになって、冬美は体を震わせていた。
「いいのよ、もう。それより見て、冬美さん……」
 ふわりと寿恵が笑う。
 彼女は優しく微笑みを深め、額縁をゆっくりと冬美に見せてくれる。
 額縁に飾られた絵を見て、冬美は眼を見開いていた。
 描かれていたのは1人の女性だった。アフロディーテだろうか。
 異国風の衣服を纏った彼女は、雪の降り積もった地面に座り込んでいる。
 彼女は優しい微笑を湛え、地面を見つめていた。
 外見年齢は成人した女性に見えるが、その面差しは冬美そのものだ。
 彼女の眼差しは、雪の中に咲く福寿草に向けられている。
 絵の中のそれは西洋の赤い品種ではなく、日本で咲く黄色い福寿草。その福寿草をアフロディーテに扮した冬美が愛しげに見つめている。
 恋人を愛おしむかのように、彼女の眼は優しげに綻んでいた。
「アド、ニス……」
 冬美は思わず絵に手を伸ばしていた。震える指先で描かれた福寿草に触れる。
 間違いない、この花はアフロディーテに会うために生まれ変わったアドニスだ。
 ハルは言っていた。福寿草の花言葉は『悲しい思い出』。
 西洋において福寿草はアドニスとアフロディーテの悲恋を象徴する花なのだ。
 けれど、絵の中のアフロディーテはまるで――
「あら、陽が昇ってる」
 寿恵が感嘆と呟いた。驚いて冬美は彼女を見つめる。
 寿恵は空を仰いでいた。雪に覆われた木々の隙間から、山吹色の太陽が顔を出している。
 太陽は黄金の輝きを放ちながら、光を周囲に広げていく。
 その様は、花咲く福寿草のように可憐だった。
 陽光が林を照らす。その光に導かれるように、冬美は地面を見つめていた。
 光に導かれ、後方にある大杉のへと視線を向ける。杉の根元の雪が不自然に膨らんでいた。
 冬美は息を呑んだ。
 急いでそれに近づき、積もっている雪を両手でどかしていく。
 かじかんで手の震えがとまらない。それでも構わず、冬美は雪を掘り返した。
「冬美さんっ」
 寿恵が駆け寄ってくる。
 雪を掘り返すことをやめ、冬美は彼女に振り返った。
「生きてる……」
「冬美さん」
「こんな雪の中でも咲くんですね……」
 涙がまた出てきてしまう。
 それでも笑顔を浮かべ、冬美は掘り返した地面へと顔を向ける。
 白い雪の中で、山吹色の福寿草が花をつけていた。
 閉ざされた冬の季節。それでも福寿草は冷たい雪の中で花開いた。
 春の訪れを知らせるために。
「スプリング・フィラメル。春の訪れを知らせる花。福寿草もその種類の花だって、あの子が言っていました」
「はい」
 彼女の言葉に冬美は静かに頷いた。
「ねぇ、冬美さん。福寿草の花言葉がもう1つあるって知っていますか? この絵の題名にもなっているんです」
「分かりません。でも――」
 涙を拭って寿恵に振り返る。福寿草のもう1つの花言葉を冬美は知らない。
 でも、あの絵からハルが何を言いたかったのかきちんと伝わってきた。
 アドニスを見ているアフロディーテは、とても幸せそうだったから。
「永久の幸福」
 冬美に絵を向け、寿恵は微笑んでみせる。
 彼女の言葉を聴いて、冬美の顔に笑みが咲き誇った。綻んだ眼を絵の中の福寿草に向ける。
「ハルのバカ……」
 そっと絵の福寿草を撫で、冬美は言葉を続ける。
「ずっと、一緒だよ。ハル……」

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