​雪の中のアドニス

   永久の幸福

「この絵を、永久の幸福たる君へ……」
 ぽとりと、唇に咥えていた筆が落ちる。
 完成した絵を見つめ、ハルは弱々しく微笑んでいた。
 口元の筋肉が動いてくれず、眼だけが笑みを形作る。日に日に、筋力が落ちていくことを否応なしに実感させられた。
 だからこそ、この絵だけは完成させたかった。
 紙の中に描かれた絵。
 雪に閉ざされた林の中で、異国の衣装を纏った女性が地面に座り込んでいる。
 彼女は慈愛に満ちた笑顔を浮かべ、愛しげに地面に咲いた福寿草を眺めていた。
 女性の面差しは、冬美そのものだ。
「はは、この絵見たら、冬美怒るだろうな……」
 苦笑が顔に滲んでしまう。
 ハルは病室の窓辺へと視線を移動させた。窓辺には小さな鉢植えが置かれている。
 鉢植えには、福寿草が植えられていた。
 黄色い蕾をつけた福寿草は、今にも花開きそうだ。
 冬美が持ってきてくれた福寿草だ。その福寿草にハルは語りかけていた。
「にしても、火事場の馬鹿力って出るもんなんだね……。まさか、ベッドの上から落下できるほど筋力が残ってるとは思わなかったよ。僕って、けっこうな役者だと思わない? そのあと、おばあさまにこっぴどく叱られたけど……」
 声が震える。言葉を続けられなくなって、ハルは眼を歪めていた。
 逃げ去っていた冬美の後ろ姿が脳裏を過る。
「いいんだよ、これで……」
 ハルは呟く。全て望んでやったことだ。
 冬美はきっと自分の側にいてくれるに違いない。
 彼女は優しすぎるから、きっと自分を選んでくれる。選んで、動けなくなる自分を見守りながら絶望に打ちひしがれていく。
 そんな思いを彼女にしたくない。そんな姿を彼女に見せたくない。
 だからこそハルは、絵が描けなくなる前に冬美を突き放した。
 彼女の幸福のために。
「でも…… ちょっとぐらい、良いよね……」
 絵の中のアフロディーテを見つめる。涙で視界が歪み、彼女の顔が苦しげに見えた。
 きっと冬美は誰か別の人と一緒になって、幸せになってくれる。
 この絵を目にした彼女は、春が訪れるたびに福寿草を見て自分のことを思い出してくれるだろう。冬美の隣には、自分ではない誰かがいるはずだ。
「あれ、何で僕、泣いてんの……?」
 涙が溢れ出してしまう。
 悲しげに眼を歪めていた冬美の姿が、脳裏から離れない。
 嗚咽で体が震える。手を何とか動かそうとしたが、今度は指先すら動いてくれなかった。アフロディーテに触れたいが、ハルにはそれすらも叶わない。
 冬美の側にいることさえできない。
「冬美……」
 彼女を呼ぶ。
「どうしたの、ハル?」
 応える声があった。
 ハルは眼を見開く。とっさに、声のした戸へと顔を向けていた。
 戸の隙間から、冬美が不思議そうにこちらを見つめている。
「ふゆ…… み?」
 ありえない光景に、言葉を失う。冬美は不満げに眉根を寄せて、ベッドへと大股で近づいてきた。彼女はハルの顔を覗き込んでくる。
「何か感じ悪いよ、ハル。せっかく約束守りに来たのに」
「約束?」
「福寿草、見つけにいかなきゃ……」
 冬美の顔が窓辺に向けられる。釣られてハルも窓辺へと視線を走られていた。彼女の顔は、鉢植えの中の福寿草に向けられている。
 冬美をそっと見つめる。彼女は眼を輝かせ、福寿草の蕾を見つめていた。
「でも、僕は――」
 顔を俯かせ、ハルはシーツに包まれた体を見つめる。
 指さえ動かせない体で、福寿草を見つけに行くことなどできるはずがない。
「大丈夫……」
 耳元で冬美が囁く。
 冬美の両手がハルの体に伸ばされ、包み込むように片手を握り締める。
「もう、大丈夫だよ」
 彼女の顔に微笑みが咲き誇る。
 その瞬間、温かなぬくもりがハルの体を包み込んだ。
 びくりと体を反らしてしまう。思わず指を動かし、ハルはシーツを握りしめていた。
「あれ……」
 指が動く。試しに、唇を笑みの形にしてみる。
 口周りの筋肉が、唇に笑みを形作った。
 手を握しめ、開く。たしかめるようにハルは何度もその動作を繰り返した。
 間違いない。体が動いている。
「動ける、僕。動いてる、動いてるよ!! 冬美、僕、動ける!!」
 嬉しさに声を弾ませ、ハルはベッドから上半身を起こしていた。
 冬美は驚いたように眼を丸くして、ベッドから後退りする。
「あ…… ごめん」
 ハルは冬美を見ることができず、彼女から顔を逸していた。
 自分は冬美を追い詰め、突き放した。彼女は深く傷ついたはずだ。
「ハル……」
 冬美が手を繋いでくれる。
 驚いてハルは体を固くしていた。彼女を見つめる。
「行こう、福寿草を見に」
「うん」
 冬美は静かな眼差しを向けてくれる。つないだ手を握り返し、ハルは微笑んでいた。
 そっとリノリウムの床へと足先をつける。床の冷たい感触に、ハルは足を震わせた。
「ハル」
 冬美に促される。ハルは思い切って床に両足をつけていた。
 立ち上がると、やせ細った両脚が体をしっかりと支えてくれる。
 足裏に床の冷たい感触が広がり、ハルは涙を堪えていた。
 何年ぶりだろう、自分の足で立つことができたのは。それが嬉しくてたまらない。
「ハル」
「うんっ」
 冬美が手を引いてくる。ハルは元気よく頷いていた。
 2人は手を繋いだまま駆け出す。戸口を潜ると、その向こうには林が広がっていた。
 間違いない。雪に包まれた林は、幼いころ冬美と福寿草を探しに来た場所だ。
「冬美、ここ……」
 ハルは声をあげていた。前方を走っていた冬美が顔を向けてくる。
 ふっと口元に笑みを浮かべ、彼女はハルの手を放した。
「冬美っ」
 ハルは叫び、立ち止まる。冬美は林の中を駆けていく。
「待ってよ、冬美っ」
 ハルは冬美を追いかけた。
 雪の上を走っているはずなのに、不思議と寒さを感じない。逆に雪を踏みしめる柔らかな感触が気持ちよく、ハルは微笑んでいた。
 冬美も同じ気持ちなのだろうか。弾んだ彼女の笑い声が心地よく耳に響く。
 やがて冬美は、大きな杉の根元で立ち止まった。彼女は地面に座り込んでしまう。
「冬美っ」
 慌ててハルは冬美のもとへと駆けていた。
 雪の上に座る彼女は、愛しげに地面を見つめている。
 地面に向けられる冬美の眼差しは慈愛に満ち、ハルの視線を釘付けにした。
 その眼差しの先には、福寿草が咲いている。
 雪の中で咲く花は、静かに春の訪れを告げている。
「永久の幸福」
 冬美が呟く。唇に微笑を浮かべ、彼女はハルを見つめた。
 彼女の言葉に、ハルは眼を見開く。
 その言葉は――
「福寿草のもう1つの花言葉。この花を見つけたときにピンって思いついたの。きっと、福寿草になったアドニスに出会えるアフロディーテは永久の幸福を得たんじゃないかって。だって、ずっと愛しい人と一緒にいられるんだもの」
 微笑えむ彼女の眼が、潤んでいるように見えた。泣くのを堪えているようだ。
 目頭が熱い。耐え切れなくなって、ハルは冬美を抱きしめていた。
「ハルっ」
「ごめん、ごめん、冬美。僕……」
 謝りたいのに、嗚咽のせいで言葉を上手く発することができない。震える背中を冬美が優しく叩いてくれる。
「冬美……」
 腕の中の彼女を見つめる。冬美は静かに微笑みを湛えていた。
「ずっと一緒だよ、ハル」
 優しく冬美が告げる。その言葉にハルは心臓を高鳴らせていた。
 たくさんの気持ちが溢れ出して、胸がいっぱいになる。
 ハルは冬美を抱き寄よせていた。腕の中に広がる彼女の体温が愛おしい。
 眼を閉じて、ハルは全身で冬美の体温を感じとる。
 かすかな心音が彼女の体から伝わってくる。冬美が生きている音だ。
 彼女はどこにもいかず、こうして自分の腕の中にいてくれる。
 これからもずっと、冬美は自分の側にいてくれるのだ。
 永久の幸福を手に入れたアドニスとアフロディーテのように、自分たちはこれからずっと共にある。
「冬美、君に言わなきゃいけないことがある……」
 そっと眼を綻ばせ、ハルは冬美を見つめた。彼女は静かに自分を見つめ返してくれる。
 その眼差しに、胸が熱くなる。押し殺していた思いが、溢れ出しそうだ。
 胸にしまっていた冬美への気持ち。自分はこの想いから逃げ続けていた。
 自分は動けなくなり、最後には生ける屍となる。
 そんな姿を冬美に見られたくなかったし、彼女にそんな運命を背負わせたくなかった。
 でも、冬美は言ってくれた。ずっと一緒だと。
 だから、向き合わなくてはならない。
 この想いと、この想いを受け入れてくれる彼女と。
 きっと2人なら、どんなことでも乗り越えていけるだろうから。
 だから、この言葉を贈ろう。永久の幸福たる、彼女に。
 福寿草になったアドニスに、アフロディーテはこの言葉を贈っていたに違いなから。
 唇に笑みを浮かべ、ハルは言葉を紡ぐ。
 アフロディーテがアドニスに贈った言葉を。
 愛しい彼女へ、贈るために――

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