――主よ、永遠の安息を彼らに与え、絶えざる光でお照らしください。
 正しい人は永遠に記憶され、悪い知らせにも恐れはしないでしょう。

 司祭の歌う鎮魂歌とともに、彼女はダンスを踊る。
 翻る衣は天使の羽根。天空を駆ける神の御使いのごとく、彼女は旋律に合わせてワルツを舞う。
 少女の首筋に白い歯を突き立て、甘美なる恐怖の喘ぎに赤い眼を細めながら。眼を剥いて事切れた老紳士の腸を引きずり出し、愛おしげに紅色の頬をすりよせながら。両手を広げ、彼女は断末魔の中を駆ける。
 彼女の腕に捕らわれた人々は、首筋を噛み切られ、その首はビロウドの床へところがっていく。
 歓喜の頬笑みを唇に宿して、首のない男性をパートナーに、彼女はステップを踏み始めた。男性の首から噴き上げる血が、彼女を赤く染め上げていく。
 ああ、なんと美しい光景だろう。
 その光景を眺めながら、あなたは涙を流し歓喜に胸を高鳴らせていた。
 やがて鎮魂歌が止むと同時に、人々の断末摩も消え失せていく。静寂のなかホールに佇んでいるのは、赤く染まった彼女だけ。
 彼女の足元には、父親の生首が血だまりの中に転がっている。無邪気な笑い声をあげながら、彼女は首を蹴る。
 ステンドグラスに当たったそれは、鈍い音をたてて、ずるずると硝子を滑り落ちていった。
 あなたは笑う。そして何年も心の底から笑っていないことに気がつき、笑うのをやめた。



 ドロローサ。
 あなたの名前だ。 
 ドロローサよ。ラテン語で悲しみを意味する名前のごとく、あなたの人生は悲惨なものだった。あなたを生んですぐに母は亡くなり、父はあなたを母の身代りとして育てた。
 故に、あなたには悲しみという名前が与えられた。
 母と同じ洋服を着せられ、母が好んだものを、あなたは好きにならなければならなかった。   
 あなたは、母の身代わりとしてしか父に愛されない。
 苦悩の果てに、あなたは母と瓜二つの美貌をもつ女性へと成長した。
 濡羽色の黒髪は艶やかに輝き、映える白肌は雪のよう。あなたの双眼は、まるで黒真珠のように静かな煌めきを宿している。
 あなたの眼は、つねに哀切に彩られていた。
 憂いに濡れた眼は、あなたの美しさをいっそう惹きたてる。
 成長したあなたは、真の意味で悲しみの道をたどることになった。
 男女の関係を、父はあなたに求めるようになる。繰り返される背徳にあなたは懊悩し、神に救いを請うために、教会の門を叩いたのだった。




 ゴシック様式の小さな聖堂。ひとたび足を踏み入れれば、冷たく神聖なる空気があなたを包み込む。見上げた先には、蒼く輝く薔薇窓が咲き誇り、巨木を想わせる柱が対となって通路の脇に並んでいた。
 ゆっくりと、あなたは薔薇窓のもとへ通路を歩んでいく。石畳を鳴らす硬質な靴音が、あなたの耳には響いているだろう。
 薔薇窓の下に位置する祭壇には唯一、あなたが心許せる人がいる。あなたの罪を優しく受け止め、神の名のもとに赦しを与えてくれた司祭様が。
 唇が自然と微笑を形づくる。あなたは頭をさげ、敬愛する司祭に挨拶をした。眦のさがった赤い眼を綻ばせ、彼は頬笑みかけてくれる。えくぼの寄る頬は大理石のように白く、一筋の混じりけさえない純白。
 頬の前にかかる幾筋かの銀髪が、薔薇窓の陽光を受けて蒼く煌めいていた。
 白い肌と白銀の髪。笑みを絶やさない穏やかな容貌。
 まるで純真そのものを形にした彼ほど、神の使徒にふさわしい人物はいない。
 彼の細い首筋には、大きな古傷が穿たれている。刃物でつけられたというその傷により、彼は声を失っていた。
 ――こんにちは、黒真珠の淑女。
 手にしたボードに、彼はチョークで文字を書く。キザなことはやめて欲しいと、あなたは苦笑した。
 彼との会話はいつも筆談でおこなわれる。
 初めての告解のさい、己の罪が他者に知られることをあなたは恐れていた。
 ――声を失った私が、どうしてあなたの秘密を他人に知らせることが出来るのでしょう
 ?
 笑みを向けながら彼は、その言葉をボードに書いてくれた。声を伴わない温かな言葉に、あなたはどれだけ救われたことだろう。
 罪を懺悔するこの時だけが、あなたにとって唯一の安らぎなのだ。
 ――今日もまた、神に赦しを請いに?
 ボードに加えられた言葉に、あなたは頷く。
 ――では、こちらへ。迷える子羊よ。
 彼に促され、あなたは彼とともに告解室へと向かう。




 聖堂の隅に立つそこが、あなたは好きになれない。オークで作られた、箱形の告解室。中に入れば、格子の向こうに司祭が笑顔を浮かべて待っていてくれる。
 あなたには、その光景が不快なものに映った。神の代弁者たる彼が、まるで牢に繋がれた咎人のように見えるからだ。首に穿たれた傷が、罪を罰せられた証のように見え痛ましい。彼から見れば、あなたも同じように牢に繋がれた罪人に見えるのだろうか。
 ガーネットの首飾りを握りしめ、あなたは彼を見すえる。
 静かに、あなたは昨夜おきたおぞましい出来事を語りだした。
 父はあなたに、見知らぬ人物との結婚を命じた。
 ――自分に、愛される価値などあるのですか?
 そう、自嘲まじりに返したあなたに、父はとんでもない言葉を発したのだ。
 お前を愛している私の子供を身に宿し、嫁ぐがいい。その子を夫となる男の子供として、育てろと。お前は我が子を見るたびに私から受けた愛を思い出し、夫も子を通じてお前を愛するようになると。
 父は結婚によって、噂になっているあなたとの関係を覆い隠そうとしていた。そのうえ、自身のおぞましい血統をあなたとの交わりによって、残そうとしている。あなたと子を生すことにより、あなたを永遠に己のものにしようとしているのだ。
 告白を終えたあなたは、震えながら嗚咽していた。
 父との姦淫だけではなく、その父の子をあなたは身籠らなければならない。おぞましさにあなたは耐え切れなくなり、両手で顔を覆った。
 助けてと、呟く。
 告白を聴いている彼は、笑みを浮かべているだけだ。
 ――神は私を、救ってなどくれない……。
 あなたは言い放つ。いくら罪を告白し赦しを請うても、神は応えてくださらなかった。
 ――そう、神は応えてなどくれない。
 ボードに言葉が描き足される。その文字を見て、あなたは驚きに息を呑んだ。彼は一体、何を言っているのだろう。
 ――ならばいっそ、悪魔に縋ってみませんか? 
 続く言葉を読んで、あなたは彼を凝視する。彼の眼は、毒々しいまでの赤い輝きに彩られていた。
 ああ、そうか。そうだったのか。
 告解室にいる彼がなぜ咎人に見えるのか、あなたには解ってしまった。
 彼が神の使徒などではなく、咎人そのものだったからだ。




 肉の腐った臭いが鼻につく。薄暗い地下通路を、あなたは司祭とともに歩いている。
 ぽきりと、ときおり足元から、あなたが人骨を踏みつけた音が聞こえてくる。
 ここは教会の地下墓地。あなたは司祭に請われ、屋敷を抜け出し、ここへとやってきた。
 司祭の持つランプが揺れながら、進む道を照らしだす。灯に浮かび上がる壁には、一面に人骨が埋め込まれていた。
 遠い昔、異教徒の追害から逃れるために、地下に隠れた信者たちのものだと、司祭は教えてくれた。
 天井を見上げれば、髑髏たちの暗い眼窩がこちらを凝視している。言いようのない不安に駆られ、あなたは歩みを止めた。
 司祭は振り返り、そんなあなたに頬笑みかける。彼にさしのべられた手を、あなたは握りしめた。温かな彼の体温にあなたは安堵し、笑みを零す。
 この人は本当に、咎人なのだろうか?
 心に生じた疑問に、あなたは答えられない。彼は確かに悪魔に縋ることを、あなたに勧めてきたのだから。
 あなたと司祭は、小さなホールの入口で立ち止まった。
 中央に置かれた硝子の棺。ランプに照らされた棺の中を見て、あなたは感嘆とため息をついた。
 これほどまでに繊細な彫刻を、あなたは見たことがあるだろうか?
 女性を模した大理石の彫像。ランプの明りを宿した銀糸は、その一筋さえも眩く輝き、滑らかな白肌は灯を受けて鬱金色をしている。
 精巧な少女の容貌は、司祭のそれに驚くほど似かよっている。よく見ると、彫刻は所々黒ずみ、崩れかけている。腐臭も微かにしていた。
 オリーブオイルだろうか。棺に満たされた菜種油色の液体の中に、彫刻は浮かんでいた。オリーブには防腐作用があるということを、以前読んだ医学書によってあなたは知っている。
 それは彫像ではなく、腐りかけた女性だった。
 ――彼女は、一体?
 ――彼女は生きています。
 ランプを棺の脇に置き、彼は壁に立てかけられていたボードを手に取り、文字を書く。その顔はランプの光を受け、恍惚と輝いていた。
 膝をつき、彼は愛おしげに棺を撫でる。まるでその中に収まるものが、かけがえのない存在であるかのように。
 ――ネクロをご存知ですか?
 棺の中の女性を愛おしげに見つめながら、彼は文字を綴る。
 ネクロ。その言葉の通り、死体を意味する言葉。
 信仰心が強い故に神に愛され、魂を徐々に体から抜かれていく者たちの総称でもある。
 生きた体がありながら、魂を抜かれていくために、眠りに就いたまま彼らの体はゆっくりと腐敗していく。
 神の元へと魂が完全に召されたとき、不要になった体は崩れ去るという。
 ――彼女は私の双子の妹です。
 ――私たちは2人だけで生きてきた。
 彼は己の境涯を吐露する。
 身寄りのない彼らは孤児院で育ち、神に日々の感謝を捧げながら生きてきた。頼れるのはお互いと、彼らを優しく見守る神のみ。けれども妹がネクロになったことにより、彼らの日々は一変した。
 眠ったまま、腐敗してく愛しい妹の体を見守ることしかできない毎日。彼女と同じネクロになりたいと神に祈り、司祭となったが、その願いが叶えられることはなかった。
 ――神は、私の最愛のものを奪おうとしている。
 だから、私は神に背いたと彼は続ける。
 ――妹を神の御許に行かせないために、私は自ら悪魔になりました。
 ネクロに関する様々な文献を読みあさり、彼は一つの答えにたどり着く。魂の器たる肉体さえ維持することができれば、ネクロとなった人間を生かし続けることができるのだ。  
 そしてネクロの腐敗をとめる方法を、彼はつきとめた。
 ――生きた人間を、ネクロに食べさせるのです。
 ボードに書かれた言葉を読んで、あなたは息をのむ。嘲笑が彼の容貌を彩る。ゆったりとボードを床に置いた彼は立ちあがり、赤い眼をあなたに向けた。
 彼の細い五指があなたの頬に絡みつく。指はあなたの首筋をなぞり、腰を撫でる。指によって肌に書かれる文字を、あなたは読み取っていく。
 ――あなたの憎い人を、彼女の餌にしてしまいましょう。
 彼の唇があなたの耳を食み、熱い吐息を頬に吹きかけた。
 甘い声を漏らしながら、あなたは問う。目覚めない彼女が、なぜ人を襲えるのかと。    
 笑いながら、彼はあなたの胸元に文字を綴る。
 ――歌が、神を賛美する歌が彼女を目覚めさせます。




 大広間を、着飾った婦人たちが艶やかに彩る。壁には眩い燭台の輝きと、ダンスの相手を待つ少女たち。男性たちは正装に身を固め、婦人たちの手の甲にキスの挨拶をして回る。
 あなたの婚約パーティに集った親族たちは、皆、笑顔を浮かべ祝福を謳歌していた。
 あなたはそんな親族たちを、慈愛をもった 眼差しで見つめている。
 何と滑稽で純真な人々であろう。あなたが幸せになれることを喜び、心の底から祝ってくれているのだから。
 人々があなたに祝福の言葉を贈るたびに、あなたは暗い悦びを、胸のうちにため込んでいく。あなたと父の関係を知りながら、己の保身と父の報復を恐れるがために、事実を黙殺してき人
 々。ネクロたる彼女が、これからどのように彼らを屠るのか、想像するだけで胸の高鳴りが抑えられなくなる。
 唯一、残念なことといったら、あなたの夫となるべき人がこの場にいないことだ。あなたの婚約者は裕福な商人だという。大切な商談があるので、婚約披パーティには出席できないとのことだった。
 名家である、あなたの家と、結びつきを持ちたいがための縁談であることは明白だ。
 結婚によって地位を手に入れ、父と組んであなたと父の関係を覆い隠そうとしている人物。 
 将来の夫となるべき人が、この場でどんな最後を遂げるのか見届けられないのが、残念でならない。
 あなたの傍らには、婚約者の代わりに父がいる。あなたの側から、片時も離れようとしない。あなたはそんな父を見て、苦笑する。
 これではまるで、父が婚約者のようではないか。
 自身を蝕む存在であっても、あなたは父が愛おしい。血に塗れ床を這いずる回る彼の姿を想像するだけで、愛おしさはいっそう強くなる。
 短い余命しか、この男には残されていない。そう考えるだけで、あなたは顔がにやけるのを我慢しなければならなくなる。
 あなたを縛る父という存在。悲しみに彩られた人生。あなたを救わない無能な信仰。
 それらから、あなたは解き放たれ自由になるのだ。
 あなたを救ってくれる、敬愛する司祭によって。
 ホールに拍手が鳴り響く。
 この日のために呼ばれていた道化に、人々が惜しみのない歓声を送っていた。メイクを施した顔に、道化は不気味な笑みを浮かべ、お辞儀をする。幼子ほどの背丈しかない体をとんぼ返りさせ、彼は舞台の袖幕へと消えていった。     
 そして舞台に司祭がやってくる。
 彼の後方からは従者に担がれ、硝子の棺に納められた彼女が続く。純白のドレスを纏った彼女は、祝福された花嫁のようだ。
 紫の法衣に包まれた腕を広げ、彼が口を開く。そこから生じるテノールの響きにあなたは驚嘆し、うっとりと耳を傾けていた。    

 ――奇しきラッパの響きが、各地の墓から、すべての者を玉座の前に集めるでしょう。

 声を失ったはずの彼が、悲しい鎮魂歌の旋律を奏でている。そのリズムに呼応し、ゆったりと硝子の棺から彼女が起き上がる。
 人々の口から、感嘆とため息が零れる。
 白いドレスを靡かせながら、ゆったりと彼女はステップを踏む。羽のように衣を翻し、蝶のように優雅な舞踊を舞う彼女。                      
 響き渡るテノールの鎮魂歌と彼女のダンスに人々は酔いしれていた。
 彼はあなたに告げた。
 ネクロを思いのままに操る、禁術があると。
 声帯に特殊な施術をすることにより、ネクロを意のままに操ることが出来るようになる。望んでいることを、思い浮かべながら歌うことにより、ネクロは意のままに動いてくれるのだ。
 引き換えに施術をされたものは、歌うこと以外で声を発することが出来なくなる。
 ネクロを操る彼らは、文字通りネクロマンサーと呼ばれる存在となるのだ。

 ――創られた者が、裁く者に弁明するためによみがえる時、死も自然も驚くでしょう。

 彼女の周囲で血が舞う。壇上から降り立った彼女が、少女の喉元に噛みつき、柔らかな血肉を啜っていた。
 湧き上がる悲鳴。

 ――書物がさしだされるでしょう。すべてが書きしるされた、この世を裁く書物が。

 少女の母親が我が子を救おうと、彼女の懐に飛び込む。母親の首に彼女が触れると、首はありえない方向にねじ曲がった。
 母親は床に倒れる。彼女は少女の体を乱暴に投げ捨てると、床に倒れた母親を踏みつけ頬笑みながらダンスを続けた。

 ――そして審判者がその座に着く時、隠されていたことがすべて明らかにされ、罪を逃れるものはありません。

 人々は叫びながら、ホールの入口へと殺到する。そこから逃げようとしても無駄なのにと、あなたは唇に嘲笑を浮かべた。                            
 パーティが終わるまでホールの扉は施錠しておくよう、召使には前もって言っておいたのだから。
 そんな彼らのもとへと、彼女は優美に踊りやってくる。
 彼女が軽やかにステップを踏むごとに、血が舞いあがる。
 首筋に噛みつかれた夫人は彼女に頭をもぎとられ、老紳士は腹を引き裂かれて、中の臓物を食い荒らされた。
 首をもぎ取られた男性の体はダンスの相手を果たした後、両腕を引き抜かれる。
 怯え逃げ惑うあなたの父は、首筋に歯を突きたてられ、首を噛み切られた。
 床に落ちた生首は彼女に蹴り飛ばされ、ステンドグラスにぶつかる。ステンドグラスに赤い筋を残しながら、首はゆっくりと床へ落ちていった。
 翻る銀の髪を朱に染め、白い頬をバラ色に染めて彼女は微笑する。
 叫喚する人々の声に合わせて、あなたは笑声をあげる。歌のリズムに乗せ、あなたは彼女と共にダンスを踊り始めた。血溜まりに転がる父の首を蹴り飛ばし、親族の死骸を踏みつけながら。
 幼子のように無邪気に笑うあなたは、彼女のもとへと駆け寄る。
 彼女があなたへと振り向き、赤い瞳を綻ばせる。あなたに向かい、彼女は両手を広げた。あなたは彼女の胸に、嬉々として飛び込む。首筋に激痛が走る。彼女があなたの首に噛みついたのだ。噛まれた傷口から赤い血が迸る。傷口が発する激痛を歓喜とともに受けとめながら、あなたは司祭の歌に耳を傾ける。
 彼は言っていた。
 生きた人間を喰っても、ネクロの腐敗をわずかに遅らせることしかできないと。ネクロを生かす最良の方法は、定期的に頭部以外の肉体を別のものとすげ変えること。
 父を殺す対価に、司祭は彼女の新たな肉体を差しだすことを要求してきた。
 誰の体でも良かったはずだ。けれども、あなたは自身の体を提供すると申し出た。あなたが彼の側にいたいと思ったから。
 ――本当に、いいのですか……。
 あなたの言葉を聞いて、彼は震える指で胸に文字を書いた。彼の泣きそうな表情を、あなたは忘れられない。
 声のでない唇を震わせ、あなたを抱きしめてくれた彼の温かな温もりを、あなたは忘れることが出来ない。
 神によって咎人になった彼だけが、あなたに救いの手を差し伸べてくれた。
 その彼を救うために、父に汚されたこの体を活かすことができるのだ。彼の愛する妹の一部として生き続け、彼の側にいられるのなら、それに勝る幸せはない。
 苦痛に耐えながら、あなたは歌い続ける彼へと笑みを向ける。


 ――その時、哀れな私は何を言えば良いのでしょう。誰に弁護を頼めば良いのでしょう? 正しい人ですら不安に思うその時に。


 歌が終わる。彼を見つめながら、あなたは告解室で彼にできなかった懺悔を、やっと口にすることが出来た。
 ――貴方を…… 愛していました……。
 悲しげな笑みが彼の顔を彩る。そんな笑みではない。いつも教会で見せてくれた、穏やかな笑みを浮かべていて欲しい。
 そう思いながら、あなたの意識は闇の中へと堕ちていった。





 ――恵み溢れる聖マリア、
 主はあなたとともにおられます。

 アヴェ・マリアを誰かが口ずさんでいる。
 きっと、司祭が歌っているに違いない。
 あなたは意識を取り戻す。あなたの眼が開き、無数の骨が埋め込まれた天井を映しだした。湿った空気が肌にまとわりつく。
 以前、司祭に連れてこられた地下墓地に、あなたはいるらしい。
 望んでいないのに、体が勝手に起き上がる。あなたが横たわっていたのは、彼の妹が眠っているはずの棺。あなたの意思とは関係なく、顔が横を向いた。ランプに照らされた司祭が椅子に座り、あなたに笑顔を向けていた。
 ――おはよう、最愛の人。
 彼の持つボードには、そう書きしるされている。

 ――主はあなたを選び、祝福し、あなたの子イエスも祝福されました。

 彼の讃美歌が地下墓地に響く。嫌な予感がする。ホールの隅にある姿見が視界に映り、そこに映る自身の姿にあなたは驚愕した。
 黒かったはずのあなたの髪は、光を受けて鈍く銀色に輝き、白い裸体は仄かに灯を反射し蜜柑色に染まっている。
 無論、あなた自身のものである肉体は腐ってなどいない。ならばこれから、腐り落ちていくのだろう。鏡に映っていたあなたは、司祭の妹とまったく同じ顔をしていたのだから。 

 ――神の母聖マリア。罪深い私達の為に、
 今も、死を迎える時も祈って下さい。アーメン。

 歌いながら、彼はあなたを抱きしめる。あなたの顔を覗き込んだ彼は、穏やかな頬笑みを浮かべていた。
 そう、あなたが彼に浮かべていて欲しいと望んだ、あの笑顔を。          
 ――良かった。君を失わずにすんで。
 彼の唇が、静かに動く。違うと、言葉を発しようとしても、あなたは唇を動かすことさえ出来なかった。 
 ここにいるのは、彼の愛した最愛の妹ではなく、あなた自身。その事実を彼に伝えることが、あなたにはできない。
 あなたが彼女になる前、彼女の中にいたのは誰なのだろう?
 彼は言っていた。何度も彼女の体を取り換え、肉体の腐敗を遅らせてきたと。
 愛する人の肉体に別人の魂が宿っていることを知らず、彼は罪を犯し続けている。
 とっくの昔に彼は神に裁かれていたのだ。最愛なる妹の魂は既に天に召され、別人の魂を宿した肉体だけがここに存在している。
 何と神は身勝手で残酷な方なのだろう。
 あなたの意思とは無関係に、あなたは彼に顔をむけた。顔の筋肉が引き攣り、無理やり笑みを形づくる。ネクロは、歌を奏でるネクロマンサーの意のままに動く。
 あなたは二度と、自分の意思で体を動かすことはかなわない。愛した妹が既にいないことを、彼が知ることはない。
 その術を彼は持ちえないのだから。          
 彼と共にあるあなたは、見届けることになるだろう。神に捨てられた彼が偽りの救いに縋り、どのように生きていくのかを。
 彼の愛する妹が、新たな肉体を手に入れるその時まで。

ケモノの物書き堂はナマケモノの一次創作ブログです。創作関連の最新情報はこちらまで。

 

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